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THINK ABOUT SOMETHING.

黙することを恐れるな

弁が立つ人間に言い負かされて、しかし胸中に残るこのもやもやは一体何なんだ、という状況が僕は凄く多い。要するに口下手なんだけど、無言の内に秘めてる感覚というかイメージというか、そこでは絶対負けてない自信がある。


もちろん人間は機械じゃないから、仮に完全論破されてももやもやは残るだろうし、ストンと抜けるような後味のいい論破なんてものはあり得ない。でもこのもやもやは感情的なものに過ぎないし、僕が最初に言ったもやもやはそんなんじゃない。


頭の中では相手よりも自分の方が正しいことが明白なのに、それを言葉にできないやるせなさ。これは夢を追いかけるバンドマンと家族がケンカになって、そうじゃないんだと言ってるような話ではなく、どちらの方が本質をえぐってるかという時に、相手が上辺でしかないと感じるようなケースの話だ。


バンドマンのケースで言えばほとんどの場合家族の方が本質的で、当の本人ははぐらかすだけというのが実態だが、これが例えばニート対家族とかになってくると、ニートの方が遥かに本質的なことを考えているケースも多々ある。家族は基本常識で喋るから、本質を捉えてても何かが薄っぺらいというか。


彼等は単にそれを言葉にできないだけで、言葉にできた時の深みは常識の比ではない。常識は平均的な対応に過ぎないし、決してケースバイケースではないから、ある種弱者の思想なんだけど、一個人の究極を平均に還元させようとするその対応の傲慢さを敏感に感じ取るのが、ニートだと思うのだ。


僕のニートの定義は深淵を識らねばならない強迫観念を抱えながらも、深淵を覗き見ることを恐れて揺蕩っている小舟――言わばニーチェ・コンプレックス――のようなものだ。そういう意味では常識者よりも遥かに現場的で、決して上辺の世界の住人ではないという逆説が成り立つ。


ちょっとニートを美化し過ぎかもしれないが、善玉のニートの全部とは言わずとも、結構な割合がこれに当てはまると思うのだ。そしてそのニートがもやもやを昇華できた場合、それは『芸術』と言えるものになるとも思うのだ。


ドラゴンアッシュの曲に『何気に何かを掴みかけてる今』という歌詞があるが、そういう前線で浮き沈みを繰り返してるのがニートだと僕は思うし、それを全く理解できないのであればそれは上辺の世界の住人の証明でしかない。


ここまで書いて思ったけど、『もやもや』の対義語は『なあなあ』だな。なあなあの世界の住人は物事を深く考えないことで自分を成り立たせ、本質を死なせるけど、もやもやの世界の住人は物事を深く考え込むことで本質を成り立たせ、自分を死なせてしまう。


ルース・チェンジを知ってる日本人がどれだけ居るか分からないけど、なあなあで暮らしてるようなうちの両親があれを見た所で、本質は何も分からない。僕もあの動画の100%を信じてる訳じゃないけど、一部本質を突いてる所はあると思うのだ。


北京オリンピックの時もうちの両親が花火の映像に感心してる中、自分だけCGだと言ってたし、これは冒頭の『言い負かされた方が間違いとは限らない』に通じるものがある。多分この時も自分の言い分は通らなかったけど、後でネットでは結論が出ただろう。


結局もやもやサイドの人間って後で評価されるというか、後でようやく理解されるんだよな。なあなあサイドの人間は常識のビッグウェーブに乗ってるから、勢いがあるんだけど、波乗りのテクニックがあるかと言われれば全く別の話ということなのだ。


うちの母親に顕著なことだけど、相手の意見を伺うフリをして、相手の意見を半ば強制的に誘導し、それをさも自分への同調だと思い込んで、自分の考えを正当化する。これがビッグウェーブの分かりやすい例で、その大波=同調者が消えた時、何の立ち回りもできないと思う。


最初に言いたかったことと全然違う所に着地したし、家族とケンカした訳でもないんだけど、なんか悪口みたいになってしまったな。要は口下手の沈黙が負けを意味する訳ではないということを言いたかっただけで、今の家族は普通に好きなのです。んがんん。