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THINK ABOUT SOMETHING.

思えば遠くへ来たものだ

同じ話を繰り返してる気がするけど、以前読めなかった漢字が勉強した訳でもないのに読めるようになった、ということはよくあることだ。これは新聞のルビやテレビのナレーションを『無意識的に見る』ことで、頭に残ったということだと思う。


僕は昔は対人恐怖症だったけど、それが自然消滅してきた仕組みはこれに近いものがある。対人恐怖症だから対人テクニックを啓発書に学ぶ、とかいうやり方は全然効率が良くなくて、それは勉強感覚だから『自然習得』では全くないし、再現性がなければ空論に終わるだけだ。


テクニックは勉強した訳でもないのに自然習得していた、という流れが一番いい。活字化されたテクニックは活字化された時点で翻訳されてるから、適用されるべき状況も近似にしかならないし、テクニックそのものも近似にしかならない。要するに原文(オリジナル)以上には絶対にならず、劣化する訳だ。


僕が対人恐怖症を例え僅かでも克服できたのは、テクニックの原文というか、いろんな人のリアルタイムの立ち回り=翻訳の前段階を今の職場で様々に見てきたからだ。この人ならこうする、あの人ならそうするというのを、シチュエーションごとに垣間見てきたからだ。


ややこしいけど、悪例の翻訳の前段階と良例の翻訳の前段階を目の前で比較的に見た場合と、活字化された悪例と活字化された良例を文字越しに想像的に見た場合とでは、情報量や経験値が全然違ってくる。これが『現場』と『机上』の差であり、リアリティーから来る体感度が圧倒的に変わってくる訳だ。


僕はリアルタイムの洞察力はあんまりないから、この『現場』を無意識的に見続けた結果、いつの間にか対人スキルは上がってきたし、これは勉強した訳でもない漢字が読めるようになるのと同じ感覚だ。上がってきたと言っても知れてるけど、『机上』で勉強するよりは全然効率が良かったなと思うのだ。


だから『机上』で勉強するよりも『現場』で翻訳の前段階を直覚する方が実践的なものが身に付くし、僕は『こうなろうとしてそうなる』という幻想を持ってないから、目標とは意識的に目指すものではなく、無意識的な観察の積み重ねでいつの間にか辿り着くものだとも思う。そう、学んでいない漢字の如く。


『こうなろうとしてそうなる』ことができれば、誰もが天才になれるし、誰も苦労しないだろう。例えば僕はボードレールを目指してたことがあるけど、ボードレールになろうとしてそうなることは先ずない。でも文筆の世界を無意識的に徘徊している内に、いつの間にか魔女の繰り言を書ける所まで来た訳だ。


一言に集約するならば『思えば遠くへ来たものだ』、これに尽きる。『机上』での勉強は『こうなろうとしてそうなる』だけど、『現場』での直覚は『こうなろうとせずにそうなる』で、前者が表面的にそれを真似るのならば、後者は本質的にそれを過ぎ去り、結果として思えば遠くへ来ているのである。