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THINK ABOUT SOMETHING.

恐れずにバカになろう

ツイッターをやっている時につくづく思うんだけど、『記述する癖』を習慣化するのはとても大切なことだ。


例えば僕が意識的に物を書くようになったのは、中学生の頃からだ。その時の文章(記述)を今になって見返すと、恥ずかしくて消してしまいたいぐらいの気持ちになる。でもそういう低レベルな頃から現在に到るまで文章を書き続けた結果、今の僕がある訳だ。


最近この考え方を音楽や絵画にも当てはめられないか、と考えたけど、音楽や絵画は文章に比べて客観的になれるというか、既存の作品と比べて自分の低レベルさを露呈され、直ぐ挫折しがち。僕が単に本を読まないというのもあるけど、文章の場合は主観的にバカをやって来れた訳だ。


例えば僕の家にはRolandの電子ピアノがあるけど、恣意的にメロディーを弾いたところで自分の知っている名曲と直ぐに比較し、あまりのレベルの差にたちまちやる気をなくす訳だ。でも自分の物書きの例に当てはめるなら、それは中学生の頃の自分に相当するかもしれない訳だ。


誰が言ったか覚えてないが、どんなB級C級バンドでも、一生やってれば一曲ぐらい名曲は造れるそうだ。それは正に『記述する癖』の一つの到達点だし、音楽や絵画が才能だけで回る世界だとは僕は思わない。才能というのは多分、主観的にバカをやって来れた者の、錯覚で突っ走った結果なんだろう。


即ち最初から精度を求めようとするから、バカになれないから人は自分の領分を広げられない。少し試してみては既に慣れ親しんだテリトリーに立ち返り、そこだけで生活設計しようとする。これも誰の発言だったか忘れたけど、特技はその人の視野を狭めるというのは、正しくその通りだ。


僕も『超えられない壁』の存在は認めるけど、そこまで行かなくてもその手前で彼を超えることはできる。例えばWebデザインで最高峰のコーディングができる人が居ても、彼が最高峰のサイトを造れるとは限らないし、その手前に居る人間が普通に彼を乗り越えるということは起こり得るだろう。


だから最高峰まで行かなくても、専門的なことが平均的にできる所まで行けば勝負することは可能だ。そこまで行くまでは客観性に目を瞑って、とことんバカやって、記述する習慣を続けなければならない。これが分かれば主観的に遊べるようになるし、何事も『継続は力なり』なのだ。


そしてその継続した結果がある一線を超えると、そのテリトリーにおいて先人と肩を並べられるし、それは誰にでも保障された権利だと僕は思っている。よっぽどのことがない限り、誰もがそこまで辿り着ける。そうなると世界は俄然楽しくなるし、将棋的・戦争的に世界を俯瞰できるようになる。


そういう『一線超え』を複数持っていたのが、例えばダヴィンチとかミケランジェロとかだろう。一つ一つは最高峰じゃないかもしれないけど、一つ一つで俯瞰的に世界を楽しんでいたのは間違いない。この感覚が分かる人は人生凄く得してるし、それは僕の身の回りでも数人しか居ないと思う。


場当たり的な生き方ではなく、計略を立て、何かを設計し、世界の中で立ち回る。別に芸術に限らず人の心を動かす技術でもいいから、数手先を読めるようになると途端に世界は面白くなる。受容的な生き方より創造的な生き方の方が絶対面白いと僕は思ってるからね。食欲より性欲みたいなものだ。


ちょっと脱線したけど、一線を超えるまではみんな苦労しているのだ。僕にはあんまり努力信仰はないんだけど、こういう努力ならいくらでもするべきだし、その為の条件が『バカになることを恐れない』という事実を踏まえて、歩き出せばいいと思う。