マイノリティーの究極へ
1/1の深淵も100/100の深淵も同じ普遍的終末ではあるが、前者は分析心理学を応用した拡張的な普遍的終末であるがゆえ、深みという点で後者には勝ち目はないが、同じように他者に適用できるかと言えば疑問が残る。自己啓発の類のことだ。
例えばドストエフスキーの詩学を読んでドストエフスキーと対等な作品が書けるのは、ドストエフスキーかそのクローンでしかあり得ないし、これは分析心理学的に終末が拡張されているからに他ならない。そういう意味で他者の研究本を読むのは、無駄ではないにしても適用度という点で未消化になりやすい。
ある程度グループ的でなければならないという問題と、ある程度固有的でなければ深まらないという問題と、その両者のトレードオフが自己啓発の抱える根本問題としてある訳だ。前者に過ぎるとその枠組みに加入しやすいが深みがなく、後者に過ぎると深みがある分自分に適用できない部分が生じてくる。
僕はユングの類型論を軽くかじってるけど、全類型普遍の深淵から各類型普遍の深淵に根を下ろしていくのが、拡張終末だ。究極的には類型は人口の数だけ存在するべきだけど、その基礎付けとして類型論を利用するのは極めて合理的で、そこから超個人的な1/1の深淵を求めていくことができるだろう。
例えば僕が過去決定論者になったのは、それが全ての原因ではないにせよ、やはりスピノザと同じ類型だったからなのだ。その事実は絶対に無視できないし、ゆえにドストエフスキーの詩学を読むぐらいなら宮沢賢治の研究本を読む。1/1の深淵は無理でも、2/2の深淵なら求められる可能性があるからだ。
拡張終末の最深部がオリンピック的到達であるとして、最深部周辺の同類型に学ぶ行為は、その類型の逆ピラミッド――普遍的終末による日蝕――の範疇にしか自己究極=1/1の深淵がないという意味で非常に効率的だし、どこからその根が下ろされるかについては、こればかりは神のみぞ知る領域だ。
拡張終末というのは即ちある普遍的終末から異端化されたもののことであり、1/1への細分化行為である。その最も合理的且つ基礎的な方法がおそらく類型論を使うことであり、次第にマイノリティーに絞られていく原点としてそれがある。その先は神のみぞ知り、我のみぞ成す領域なのだ。
極論だけど、1/1的ではないアートは同じ枠組みの人間に容易く乗り越えられていくし、逆に1/1的なアートは、それが本当に深淵の深淵であるならば、歴史的終末に紐付けられた必然性の芯に迫ることになるだろう。それは乗り越えられることがないという訳ではないが、最低でも歴史化はするのである。
要するに、何度創世をやり直しても歴史から漏れない必須事項に化けるということであり、僕はその閾値を超える為に創作をやっているのかもしれない。暫定王者を超える王者が現れても歴史的段階としての到達点は揺るがないし、諸王の王は歴史的終末に君臨しても、彼は諸王なくしてあり得ないのである。