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深淵のその先へ

深淵のその先へ進軍する為に類型論を使うのは妥当だけど、この飛び道具は終末の確定作用ももたらすので、浅はかな段階で使うのはもの凄く勿体無い。要するに、100/100の深淵で使うよりも10/10の深淵で使うべしということなのだ。


ユングの類型論は8タイプあるけど、ややこしいので10タイプあると仮定して、それを100/100の深淵と10/10の深淵に適用した場合、確率的に均等にバラけていればそれぞれ10/10と1/1の深淵になる。しかしこの場合の10/10から1/1へは降りていけない現実も同時にある訳だ。


例えば芸術的成功者の深淵は、類型論によって芸術的王者の深淵まで拡張されるけど、これは究極的には類型の一つとして帰結され、即ち類型論とはある深淵から更なる深淵への架け橋なのだ。しかしこの必殺技も固有性の発動範囲の一定性とリンクしているから、そこで行き止まりになる作用も同時に及ぼす。


終末から類型論などによって細分的に降りていった場合、その始点を終点に導くに過ぎないが(しかしこの幽かな差がオリンピック的には劇的な差ではあるのだけど)、終末から普遍的なまま降りていった場合、それは普遍性の限りにおいてどこまでも降りていける。即ち、始点から始点へと推移していける。


普遍的終末を更新する時点で細分化しているのは間違いないが、そこで淘汰される理由が怠惰であったり、傲慢であったりする場合は類型論を使うまでもない。単純に謙虚に研鑽を重ねれば、類型論をいざという時の切り札として残しておける。公理的なものの基礎を固めて、最後にフルカスタムすればいい。


即ち拡張終末というのは、拡張元の終末に対する個別化された答なのだ。それはボクサーの階級ごとにスタイルをカスタムするようなもので、その時点で終末自体の純粋な更新は途絶える。翻って普遍的終末の正当発展は、発展先の終末から発展元を俯瞰する行為――可逆な可能性のレイヤー化――なのだ。


言わば同位を極めるか、位を上位にするか、その違いだ。従って拡張終末は徹底的に上位になった以降に実践するのが合理的で、何故なら下位を極めても上位には敗れるからだ。暫定的にカスタムを利用するのは時に有効だけど、下位クラスを一生の暫定にする訳にはいかないだろう。


そう考えると結局公理的なものの基礎固めをした人間が、最後は一番強くなる。普遍的な積み重ねをとことんして、最後に固有的なツイストを起こす。その為の研鑽を遊びと繋げるのが僕のエロス論に他ならず、自分以上に自分を楽しめる人間は居ないのである。