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THINK ABOUT SOMETHING.

放たれるべくものとして我はある

僕は万回創世をやり直しても万回造られたであろうものを『原理的なもの』と呼んでいるが、これは人物に対しても適用することができ、万回生まれ戻っても万回造られたであろうものも同じく原理的なものなのだ。僕は長年これを神聖視してきたけど、どうやらそうじゃないらしい。


例えば性の目覚めにおける黎明期では、誰もが同じような想像でそれを処理する。即ちフェティシズムが全くなく、セックスシンボル的というか、安易な理想を最高峰のそれと錯覚する。それは万人の通過儀礼としての必然であり、犯すべくして犯された過ちであり、その想念は原理的なものの一種である。


翻って終末的なものはどうか。性の例で言えばこれはフェティシズムの究極としてあるのであって、限りなく一回的なものと言っていいだろう。それは自分以外の全ての偶然性と関連していて、それが万回万別の一回性に帰結される根拠だが、しかしそれも一つの必然性なのだ。


即ち必然性(我の本質的性質)の開始地点は万回同一ないしはその近似に固定されているが、最終的帰結では万回万別にその性質が放たれるのである。しかし前者は歴史の必然性に結び付かず、繰り返されるものとしての歴史的偶有性に過ぎず、繰り返さない歴史的唯一性としての後者が歴史を動かすのである。


そう考えると唯一性が全くないという意味で、全回的なもので構成された作品は全く面白味がない。それはベック・ハンセンの言う何にでも置き換わり得るものとしての溢れ返った氾濫物に過ぎないし、むしろ万回生まれ戻っても万回異なったであろうもので構成した作品の方が、遥かに奥深くなると思うのだ。


以上のことから読み取れるのは、最高峰の拡張終末の何を採用するかは一択ではないが、万回万別の彼岸にこそオリンピック的勝者=唯一者性が存在するゆえに、そのいずれかに属さなければならないということだ。即ちアンフォルメル的な意味ではなく、ギャングスタ的な意味で放たれなければならないのだ。


性癖で言うところのセックスシンボルからドッペルゲンガーまでの射程は、『あるべくしてあるもの』という定義で一貫している。繰り返しになるけど、前者は全回的・パターン的であり、後者は一回的・ランダム的であり、しかし前者から後者に向かってオリンピック的勝利の確率が収束する図式がある訳だ。


僕が犯した過ちは要するに、個人的な1/1とオリンピック的勝利の1/1を紐付けてしまったこと。『あるべくしてあるもの』という定義上では同じことなのだが、しかしそれは彼岸の1/1でなければならなかった。だからこれからはもう少し、自分の創作にアトランダムなものを導入しようと思ったよ。