唯一者と絶対者の狭間で
そんな言葉があるかは分からないが、僕は無限論者として『絶対なるものを信じない』というスタンスを取る。例えばあるものとあるものの中心、あるものとあるものの同期といった、相対性がなくなる現象を僕は信じない。
前者は例えコンピュータ・グラフィックスでも成立しないし、後者は例え電子音楽でも成立しない。横一列の奇数ドットには中心があるが、ドットそれ自体の非等価性を無視する訳にはいかないし、電子音楽にしたってスピーカーがリアルタイムで変質していることを考えると完璧なリズムというのはあり得ない。
僕はよくこの絶対性と虚無を混同するけど、その場合の虚無は終末論的な帰結の隣人としてあるのであって、上述したように『信じない』というスタンスを取りながら、そこを目指さざるを得ないスタンスも同時に取る。即ち観念としてあるものと現実としてあるものの相対性キラーがオリンピック選手なのだ。
そことの乖離が大きくなれば確かに見かけの自由度は大きくなるが、それは最大最弱の唯一者性でしかない。翻って乖離を最小限に抑える行為は最小最高の唯一者性に繋がり、虚無からの祝福――諸王の自由意志――を獲得する。即ち『名もなき終末』か『名を刻む終末』かの二者択一がそこにあるのだ。
そして諸王の自由意志とはアポステリオリなものだが、アプリオリなものと紐付いているというのが僕の信仰だ。但しエロスの定義は今まで何度かつぶやいたが、これ自体がアポステリオリなものと見ることもできる。例えば風立ちぬの主人公が、航空技師を目指すのが生まれつきだとは考えられないようにだ。
仮にエロスを形造る体験を原体験と呼ぶとして、しかし二郎が出逢ったそれに僕が出逢っても原体験にはならないという意味で、やはりエロスはアプリオリなままだ。何と紐付けられるかについての自由度はあるけど、相反する分野もあるからある程度絞られてるし、そこにもやはり歴史の芯に似たものがある。
即ち楽園という歴史的終末があって、その帰結先はいくつかあっても、その究極の帰結は一択になるし、そこに結び付く歴史的プロセスを僕は『歴史の芯』と呼んでいるが、これは個人的な歴史にも当てはめられ、エロスの純粋なベクトルと、原体験によって紐付けられた軌道とに乖離がない状態が理想なのだ。
更に言えばエロスの純粋なベクトルと、原体験によって紐付けられた軌道と、目的論的究極の芯と、これら三つが三位一体になった時にオリンピック的勝利が成立し得るんだと思う。エロスそれ自体では達し得ない領域への上積みは原体験によって紐付けられるが、そこに大きな乖離があってはならないのだ。
アプリオリな自由は産前から受け継いだ生的なものだが、アポステリオリな自由はその彼岸にある『約束の地』に隠されている。エロスはその生得的なものの中に含有され、原体験はその対極にある『虚無への橋渡し』だが、神から本来の自由を取り戻すその聖戦こそが『アート』なんじゃないかな。
ちなみにエロスの純粋なベクトルと原体験によって紐付けられた軌道との乖離は『心身の乖離』を生み、原体験によって紐付けられた軌道と目的論的究極の芯との乖離は『夢現の乖離』を生む。これらの乖離を最小限に抑えたところに万人の固有名詞が刻まれる為、あらゆる継続はそこに注がれるべし!なのだ。