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グリフィス的転回

昔たまたま見かけたツイートに、『完璧な演奏よりミスをした演奏の方が評論家に受けがいい』みたいな内容のものがあった。厳密な意味でのノーミスというのはあり得ないけど、そこに肉薄するオリンピック的要素から外れたものが評価される図式だ。


記録的競技は記録が目的だから、人間限界の記録に肉薄すればするほど評価されるけど、例えばボクシングだと『試合に負けて勝負に勝った』という言葉があるし、楽器の演奏も上記のような例がある訳だ。ここには何か根本的なものがあると思うので、今日はそれを考察してみる。


先ずボクシングだけど、これは先日つぶやいたように『虚無に肉薄した側がしなかった側に負ける』ということが起こる。美学的累積として見た場合相手を上回っていても、確率的な偏差の端っこがやってきて、いきなりKOされるというパターンだ。即ちいくら優勢でも確率をゼロにすることはできないのだ。


『勝利の女神』という言葉があるけど、これは原則として虚無に肉薄した側に微笑むもので、それは不確定要素を如何に自分寄りに確定させたかの総和で決まるものだが、そこだけが全てではなかったりする。一瞬の油断をやられたり、しかしそれで相手が一気に虚無に肉薄するという話でもない。


仮に最も虚無に肉薄した人間が常勝し続ける仕組みがあるとすれば、一度掴んだ王座は一生覆ることがないし、タイトルマッチの意味もなくなってしまう。言い換えれば確率的な揺らぎがあるからこそ敗北があり、ドラマがある訳で、順当なものが順当ではなくなるところに熱狂が起こるのだと思う。


この考え方をそのまま楽器演奏に当てはめる訳にはいかないけど、『ミスにドラマがある』というのは言い得て妙だ。しかしそれは究極まで必然性と寄り添って、それが崩壊したところの背徳としてのみ成立するから、最初から崩壊しているミスだらけの素人演奏ではそれは成り立たない。


ベルセルクが蝕で終わるべきだったというのは、つまりそういうことなのだ。蝕までのグリフィスは必然性の究極――『最も虚無に肉薄した男』として描かれ、諸説はあれどそれを不可抗力的に裏切ったところに最高峰の熱狂があった訳だ。今は『不可抗力への必然』という話ではなくなってて、膠着状態だ。


これは極端な例としても、そういう『背徳の旋律』みたいなものを人は無意識的に求めているのかもしれない。即ち究極まで可能性を絞ったところの最後の裏切りみたいなものが、人間的帰結というか、人間的必然というものなのだ。その未満で清濁併せ呑まない思想を唱えるのは何か間違ってる気がする。


記録的競技が人間的必然を隠し切ることを是とする競技であるならば、それ以外の競技は表面的には同じことを求めながらも、無意識下ではそれが覆ることを要求している競技だ。それが見え隠れする程度の確率調整が競技を競技化する上でのミソであり、そこが膠着している種目は総じて面白くないのだ。


非記録的競技のこの不可抗力性――必然性の為の必然性――こそがドラマの契機であり、翻って記録的競技は不可抗力に抗い続けるところにレコードの契機が生じるのだ。どちらにも通底しているのは美学的累積として虚無を演じることだが、その帰結が裏切りか完遂かとして分たれるのである。


そういう裏切りの転換点をボクシングも楽器演奏も確率的に例外なく孕んでおり、ゼロにすることはできないからこそ、ゼロにしようと足掻く姿が可視化された時は総じて美しいのだ。この逆説的な美学的転換点――あるいは聖なる特異点――のことを『グリフィス的転回』と呼ぶことができるかもしれないな。