BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

要介護者のモラトリアム権

ここしばらくツイートを控えていたが、介護職員初任者研修を受講して思ったことを書く。先ず僕は記憶力が弱いし、体系的に全体を俯瞰する能力も不足しているので、甘い考えになっている可能性は否めないことを断っておくが、それでも書く。

 

僕はメンタルに病を抱えてどん底を経験した時、それまで好きだったハッピーなメロディーの曲が全部嘘に思えた。フレーズで言えば『陽はまたのぼる』とか『やまない雨はない』とか、そういう類の言葉がつらかった。とても上を見ることのできる精神状態ではなかったし、容赦ない言葉にしか感じなかった。

 

メンタルの世界では理解のない、または(いろんな意味で)余裕のない家族はともかく、基本的にはそういう人を下支えする。その人がその人自身の意志で変われるようになるまで原則として強要しないし、下支えというのは上を向かせることではない。最終的に意志を決定するのは他人ではなく、本人なのだ。

 

ところがだ。介護保険の理念だと『生活能力の維持または向上』ばかりがフォーカスされていて、その人の『上を向く余裕のなさ』はフォーカスされていないという印象があるのだ。それは裏を返せば制度の側の都合、家族の側の都合が優先されているということではないか。

 

要するに『強要』というとオーバーだけど、下支えせず、顎を持ち上げて上を向かせる。持ち上げることそのものに悪意はないかもしれないが、余裕がないのは高齢者も周り(家族や介護者)も一緒なのだ。そこで家族の側や介護者の側が一定の努力を見せず、本人にばかり努力させてたら、そりゃイヤになる。

 

ここでいう努力というのは『原因を見てそれをケアする』ということだ。対症療法ではなくてね。施設の実習にも行かせてもらったが、本音で言えばままごとをしているみたいで、僕で言えばハッピーな曲が絶望にしか感じなかった状況に酷似しているなと思ったし、全部が全部上辺に感じたのだ。

 

でもここまで書いておきながら分かってるんだけど、その原因へのケアというのは相当難しい。メンタルの世界でも僕が聞いたところによると、今や投薬治療がメインになっているみたいだし、じゃあどうなるかと言うと、制度が暗黙的に『そこまでケアする余裕はない』という態度を示す。

 

具体的にそんなことは言わないけども、自立支援という大義を掲げてそれを隠してしまう訳だ。すると割を食うのは高齢者の方で、しかし高齢者の側は向こうが大義を掲げている以上、反論がわがままという扱いになる。僕はそれこそ上辺で、それは違うと思う。怖いなとも思う。

 

隠し通してる側がまかり通って、何も隠していない本音の側が大義につぶされる。その(高齢者の)本音は大義の裏にある(制度側の隠している)本音に届かなければならないのに、その手前でシャットされる。高齢者の方は正直思考力も低下しているところがあるし、尚更そうなってしまう訳だ。

 

ただ僕が思うのは、メンタルの世界では投薬治療がメインなのだとしても、下支えの精神がある。顎を持ち上げて上を向かせるようなことはしないし、下を支えて、いつでも本人の意志が上向くことができるようサポートする。これが理念なのかは分からないけど、素晴らしいことだと思う。

 

それこそが周りの努力的な部分で、例えゆっくりでもステップを踏み続けることが本人の努力的な部分で、これらが釣り合って初めて健全と言えるのに、要介護者の場合、その本人の側の努力重視になってしまっている。自立重視なんて言葉はないかもしれないけど、それと重ね合わせて、正当化されている。

 

逆に周りの側の努力的な部分が本人に届けば、その本人も動こう、変わろうと思える時が来るかもしれない。僕は『時は薬なり』と思っているし、大体のことは時間が解決するものだと思っている。もちろんそこに前向きな意志がなければ変わらないけど、それは本人だけの問題ではないのだ。

 

但し自分の転機(=決定に到る道)なんて自分にしか分からないし、そこに他者が強制的に導くなんていうのは絶対に傲慢だ。決定するのは本人であって他者ではないし、その道中で決定権を剥奪するような介護が、メンタルの世界と真逆だと思ったのだ。決定までの道を迷うプロセスも一つの権利なのだ。

 

その傲慢さ(=周りの強要)が出た時点で切れられても仕方ないのに(これは決して逆切れではない)、上述したように、それ(=迷う権利の主張)は大義によってわがままという扱いになる。自立の尊重か意志の尊重かという問題がそこにはあり、しかし前者ばかりが優先され、後者の声は黙殺されている。

 

メンタルの世界では全てではないにせよ、『時間をかける』『本人を信じる』という精神があると思う。それが高齢者の介護においては欠けていて、例えば喪失体験で心の足に傷を負っているのに、その足で歩かせようとする。その先に行かなければいけないのは分かっていても、やり方というものがある訳だ。

 

吉本孝明は「ひきこもれ!」と言っていた筈だが、それは「迷う権利を取り戻せ!」という意味だと僕は解釈しているし、それを介護保険制度に当てはめると『モラトリアムカットへの異議』ということになる。要介護状態の高齢者の声なき声――精神的猶予の訴求――がそこにはある。

 

お歳を召されている部分があるから、あまり悠長なことは言ってられない面もあるかもしれないけど、理想と現実の間でかなりの隔たりがあり、理想からかなり下の方で妥協されているというのが僕の本音だ。そしてその妥協に高齢者の側の合意というか、意志反映はほとんどないと思うのだ。

 

僕の場合被害妄想だったけど、高齢者の場合喪失体験が引き金で地獄を見ている部分はあると思う。そこはメンタルの世界と同じ扱われ方をされるべきだと僕は思うし、理想論かもしれないけど、上辺のケアではなく、本音へのケアがなされるべきだと思ったな。

 

最後に本音で言わせてもらえば、本人の意志がそうであるならば、閉じこもるのもアリだと僕は思ってる。本人が努力して、周りが努力して、それらが釣り合った上での最後の結論がそうであるならば、それは本人の自由だと思う。そこで自立を目指すのが一番だよ、と言い切ってしまうのが僕は怖いのだ。

 

周りばかりが努力してそれならわがままだし、本人ばかりが努力してそれなら当然の結果だし、でも両方が釣り合ってそれであるならば、最後は周りではなく本人の意志が尊重されるべきだろう。とても仕事できる状態ではないという結論に到った人に仕事を強要しないように、最後は本人が選択するべきだ。

 

もちろんそうすると今度は周りの負担が増えるけど、お互いが最大の努力をした結果がそれであるならば、ある程度納得できる部分はあると思うし、それもせずに不満を漏らしたり強要を優先するのは違うと思う。ただ一方で介護疲れという側面もあるから、そこも包括的にケアできる仕組みが必要だとも思う。

 

結局全てを平均化することなんてできないし、どこかが必ず割を食うんだけど、それを食らってるのが現状高齢者なのではないか、というのが僕が今回受けた印象だった。『自立』を振り翳されると何も言えなくなるけど、それでも声なき声はちゃんとあるのだし、そこに真摯に取り組み視点も必要だと思った。

 

「自立に向けて頑張ろう?」という声と「あなたの頑張りもほしい」という声は本来等価。そこを等価にせず、割を食わせるのが問題なのであって、自立を目指すこと自体は基本的に正しいもの。だけど余裕のなさの押し付け合いをして、誰かが割を食う……それが介護の世界の実態だと個人的には思った。

 

精神病者にしたって要介護者にしたって、何もしたくない時はある。閉じこもりたい時もある。それは自分が精神に病を抱えた経験から分かることだし、その時に僕の意志反映(ひきこもりたい)が許されたように、要介護者の意志反映も、甘いかもしれないけど、ある程度許されるべきだと僕は思う。

 

例えば片麻痺で天涯孤独で、介護保険のお世話にならざるを得ないという時に、そこに上辺の希望しかなくて、実態的にはゲームオーバーというような空気。その原因の一つが自立を振り翳されることによる自由意志のシャットで、表現がややオーバーだが制度の言いなりにならざるを得ないという問題。

 

こんな問題をフォーカスしても仕方ないのかもしれないけど、周りの意志と本人の意志を等価(またはそれ以上)にしようとする精神がメンタルの世界にはあるのに、介護の世界ではその意識が乏しい。要は介護者の側に一定の線引きがあり、等価なところでその線を引かず自分に有利なところで線を引く。

 

これはおそらく要介護者には見透かされてると思うし、温度差というか距離感というか、それは確実に覚られてると思う。でもそれに反論できないような風潮があるから、実質ゲームオーバー。なんか同じところをぐるぐるしたけど、結局僕が言いたいのはそういうことだ。