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THINK ABOUT SOMETHING.

2045年問題論

物理学の世界では尺度の最小単位をプランク長として定義しているが、例えば狭い正方形があるとしよう。この正方形の中心から右半分の180度の範囲内で、無限に細分化した各角度の線を引くとする。すると右方向への移動量は、プランク長を更に細分化したものとして無限に観測することができるだろう。

 

また精神というものを考えた時、それは有限を無限に細かくした第二種の無限ではなく、宇宙のように無限に広がっていく第一種の無限(永久機関)であり、何故なら仮に精神が有限であるならば、物理的な寿命とはまた別の寿命が存在しなければならないが、誰もそれを見たことも聞いたこともないからだ。

 

例えば動物の寿命が10倍になる研究があるけど、あれが実用化されたとして、肉体の老化速度が1/10になるということであるならば、200歳でも20代の精神力はキープされると思うのだ。要するに精神が有限であればどこかで平均寿命に頭打ちが来る筈だが、その気配はなく、当面は肉体依存なのだ。

 

精神は肉体よりも大きく、真の無限だが、肉体に依存する以上有限に囚われ、しかしその有限もまた無限の分解能を持っている。言わば第一種の無限から第二種の無限への退行であり、しかし本質的には精神は真の無限である。これより大なるものはあり得ないし、それを宿せない人工知能などか弱いものだ。

 

僕は無限・自由・永久機関をほぼ同義で扱っているが、コンピュータは電気的に動く以上、間違いなく永久機関ではないし、生物の世代交代以外にそれを再現する術はない。彼等のおこぼれとして成り立つ人工知能は、有限且つ代償を求めるものであり、第二種の無限にしかなり得ないのだ。

 

結果2045年問題は否定される。第二種の無限を無限に大きくしたところで第一種の無限には勝てない。エミュレータが実機以上のグラフィックを描画するという例を出しても無駄なことで、実機がそもそも真の無限なるスペックなのに、そこから再構築したものが何故それ以上に大きくなることができよう。

 

即ち肉体的制約を受けないイマジネーションの領域で、コンピュータは人間に太刀打ちできない。そこにアートの必然性を見出すこともできるし、それこそが最も人間的な領域であるという逆説を唱えることもできる。これは以前の僕の説と何ら矛盾しないもので、生活にアートを宿すことを第一義とする訳だ。

 

逆に言えば肉体的に過ぎない領域に閉じ篭る限り、コンピュータは人を超え得るだろう。ちなみにイマジネーションの対義語をここではルーチンとし、決して右脳と左脳と言った旧来の定義にはしない。このルーチンワークに関しては、従来通りコンピュータに任せていけばいいのだ。そこはそのままでいい。

 

上手く言葉にできないが、要するに、肉体的制約を受けない領域が実効性を伴った場合、それはイマジネーションから来るアートとなり、逆に肉体的に過ぎない場合、ルーチンワークにしかならないのだ。イマジネーションの羽ばたきがないものが実効性を伴ったもの、それが旧弊な意味での『仕事』なのだ。

 

もちろんこの考え方――生活にアートを宿す生き方――が全ての仕事を救済するとは到底思えない。便所掃除にそれが適用できるとは思えないし、廃品回収にそれが適用できるとも思えない。2045年問題はそういうところだけを片付けて、残りの僕等は生活をアートにすればいいだけなのだ。

 

仕事を通じて人間として輝きたいという欲求は、思っているよりも幅広くのワークに宿せるが、ケースワークをアートワークに変える術というのは、昇り調子だけではなく、悶々とした葛藤や退行も含まれる筈だ。即ちイマジネーションは極めて広義であり、完璧への一直線だけが全てではない。

 

例えば画家が一気呵成に全てを描き切ることもあるだろうが、悶々とした葛藤や退行も傑作の因子になり得る筈で、そういう実効性を伴った精神活動だけが僕達の、人間の、芸術の交換不可能性を証明する。人間らしさはむしろそういう曖昧さから来るもので、そこでの闘いが、いつの日かのアートになるのだ。

 

だから膨らまないルーチンワークに人工知能を、膨らみ得るケースワークに人間とアートを。2045年問題はこの棲み分けを明確化するものであればそれでいいし、それ以上のことはできないというのが僕の直観だ。カーツワイルは無限より大なるものを目指すという実態について、一体どう考えているのか。

 

大きな声では言えないが、僕はそれは成立しないと予言しておこう。コンピュータに無限の臨機応変さなど成立しない。悩み、葛藤し、その末に自動書記するということもできない。そしてコンピュータが単体で自我を持つことも、絶対にない。彼等が永久機関でない限り、これらは全て不可能なことなのだ。

 

もの凄く分かりやすく言えば、CPUの性能がどこまでも大きくなっても、定格クロックがある以上無限そのものにはならない。有限が無限に大きくなっていっても、数値化された時点で無限ではない。無限とはアプリオリにそうであるもので、しかしコンピュータはアプリオリに無限ではない。これが全て。