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THINK ABOUT SOMETHING.

自分自身のオーバーライト

無意識的に行っていることは意識的に行ってきたことのハードウェア的な焼き付きだ、という説を過去に見た。例えば何の知識もなかった頃、僕は自転車のブレーキをかける時右手からかけていたが、リアブレーキ(左手)からかけるべきだということを知り、そこからはずっと意識的にそうするようになった。

 

いつも右手からかけていたから、最初はとても違和感があったけど、今となっては無意識的に左手が先に動くし、「ああ、これのことなんだな」とふとした時に気付いたのだ。要するに『癖付け』であり、『無意識のオーバーライト』であり、しかしそれはHDDと比べるまでもなく、要する時間は桁違いだ。

 

何が言いたいかというと、無意識的なもの、性格的なもののある部分を変えたい時、自転車で右手に対して左手を出したように、それが出そうになった時にその反対のものを意識的に出すようにすればいい。そうすればそれがハードウェア的に焼き付いていって、最後は無意識がオーバーライトされるのだ。

 

しかしこの無意識のメカニズムは、意識的な挙動によってのみ書き換えられる訳ではない。人は意識的にも成長するが、無意識的にも必ず成長する。過去に僕が言った『学んだ訳ではない漢字が読めるようになる』がその分かりやすい例だ。ハードウェアは絶えず焼き付いていくものなのだ。

 

それはミスチル風に言えば『知らぬ間に築いていた自分らしさの檻』であり、その自然形成された自我に仮に満足しているとしよう。しかし友達の言葉だけど、彼が「ある何かに満足することでそれ以上のものを曇らせることがある」と言うように、意識的に上を取っていく審美眼も要る訳だ。

 

無意識的な成長というのは、例えば成長期までの人間の身体が図らずとも結果論的に成長するようなもので、しかしそれを彫刻のような身体にまで持っていこうと思えば、意識的なトレーニングが欠かせなくなってくる。要するに、無意識的成長の伸び代は意識的成長の伸び代に劣るという訳だ。

 

多少の誤差はあれど、理想的な肉体、理想的な精神のイメージはある程度共通しているし、肉体にしろ精神にしろ、だらしのないものは基本的に憧れの対象にはならない。そしてその憧れの対象者自身は、肉体的な場合でも精神的な場合でも、意識的にそこに辿り着いたケースがほとんどだと思う。

 

ある程度共通しているということがどういうことかと言うと、誰もが理想の側に立てるということだ。全ての理想が隔たっている場合それは無理だが、オーバーライトするべきものの一定の法則性がそこにはあり、松ちゃんが小さい頃から落語を見ていたのもその踏襲で、純粋な天然の天才など存在しないのだ。

 

但し僕は精神の理想にベルセルクの『あるがままであれ』を置く。精神の無限性に際限なく実効性を持たせた状態のあるがままを、人間の最高峰とする。これは上述した意識的成長(『かくあるべし』)と相反するように思われるかもしれないが、この聖なる子供帰りはとてもテクニカルなものだ。

 

そういう意味で松ちゃんに限らず芸術家的な人間は、子供帰りのテクニックを意識的に積み重ねている。言わば『あるがままであること』を『かくあるべし』にしていて、これは三島の『決定されているが故に僕らの可能性は無限であり、止められているが故に僕らの飛翔は永遠である』に通じるものがある。

 

フォルム(Order)にはフレームワークがなく、無限ないしは永遠であり、アンフォルメル(Chaos)にはフレームワークがあり、有限ないしは一時であるという逆説。コンピュータのランダムウォークが後者であり、その見せ掛けの無限は人間の秩序的な無限に勝てないという逆説。

 

聖なる子供帰りの利権争い(最も大なる無限の夢見)がアートであり、それは最も深なる感動と紐付けられている。それをフォルム(Order)の究極とすれば、そこにはアンフォルメル(Chaos)の立場からは永遠に到達できない。彼等はブレイクダンスも踊らなければ、トリプルアクセルもできない。

 

そう考えるとフォルム(Order)は無限への途であり、アンフォルメル(Chaos)は有限の檻なのだ。無限が無限に肯定されていくのが前者の究極だが、後者の究極は、有限が肯定の条件を一切満たさないという最低の状態を指す。シュルレアリスムが正にこの状態で、誰もが同じように廃れていく。

 

シュルレアリスムは無限の相を持つようで似たり寄ったりに過ぎず、有限的。翻ってフォーマルな活字は逆に無限の相を持っていて、そのどれもが無限に肯定されていくという理想をある程度体現している。この違いはやはり大きいし、それがフレームワークの有無ということの真意なのだ。

 

結論としては、松ちゃんのようにフォーマルになる部分を自分の中に置くべきだということ。無限を無限に肯定させる為のオーバーライトは、苦労してでも買って出るべきだということ。身体が枷になる以上完璧ではないが、人間はある程度自由に変われるということを信じてみよう。