今を生きる
『精神的に病む』ということの定義について考えたことがある。例えば家族全体で10のキャパがあって、しかし生きていく為に11のことをこなさないといけない場合、その中の誰かがキャパを上回る仕事(11-10=1)をこなさざるを得なくなる。
その割を食う人間の過剰分が強烈だったり、あるいは小さくても積み重なったりすると、それが病になるのではないか。後者は説明するまでもないが、前者は例えば離婚などで家族を失った人で、仮に貯金があって生活的キャパに問題がなくても、精神的キャパには一気にひびが入る訳だ。
そういう強烈な体験で一度精神が脆弱になってしまうと、元来のキャパに収まる生活に戻ったとしても、その時点でのキャパは目減りしているから、対応できなくなってしまう。その目減り分というのは要するに、内面的な苦悩であり、過去に囚われるとキャパを侵食してしまうのである。
僕の友達の昔からの持論で、最近になって考えが変わったものがあるのだけど、それはお金が死ぬまで無制限に使える権利があれば、ほとんどの精神病は治るというものだった。でも欲求が全て満たされるということと、苦悩が全てなくなるということは、別問題だったりもする訳だ。
例えばいくら自分が恵まれていても、世界が醜いのに何故自分だけ充足できるんだ、という人は実際に居たりする。その人の話を聞いた時に友達の考えは無理があるな、って思ったし、しかも世界の醜さなんていうのは終わらないテーマだから、そこに囚われる限り病も終わらないなと正直思ってしまった。
全てではないにせよ、キャパ以上のことを抱えている人間のドロップアウトが精神病であるならば、健常な頃の自分との差分(クラッシュ因子)に真摯に向き合うことが回復に繋がるのではないか。人間には感情があるから、筋道立てるだけの生き方は難しいけど、そこにメスを入れるべきなのではないか。
例えば失恋の後に精神的に病んでしまうとする。この時『失恋した』という事実以外の全ての環境が以前と同じものに固定されていた場合、その人の病んでいる原因=クラッシュ因子は失恋以外の何物でもない。
逆に言えば失恋という過去をどの時間軸に移植しても、そこから後の私生活は全て病的にクラッシュされる。それを更に逆に言えば、失恋した直後に失恋の過去を忘れられたら、失恋する以前の精神状態で私生活に臨める。過去は変えられないけど、その変えられない過去の有無だけで、人生は激変する訳だ。
もちろんスイッチを押したみたいに、過去を急に忘れるなんてことはできないし、どこまで行ってもそれは虚勢だ。しかしその虚勢が自然体をいつかオーバーライトするのであるならば、暗い過去に関しては全部忘れるフリをするに限る。暗い過去が形成された更に過去、そこと同じ精神状態で今に臨むのだ。
明るい過去だけを財産に、暗い過去は全てゴミ箱に。もちろんそういう生き方が砂上の楼閣であることは否めないが、『気丈に振舞う』ってそういうことだろう。変えられないものを変えようとして悩むぐらいなら、いっそのこと清算してしまった方がいいのである。
毎日『今を生きる』の精神で。そこに明るい過去が下積みされていけば、一つの輝かしい一貫性が生まれる。失恋しても、変わらずに強く居る。家族を失くしても、変わらずに強く居る。しかし明るい記憶だけは今に刻むから、人としてどこまでも強くなっていく。
それが本当に理想かどうかは分からないけど、メンタルの波を制するって、そういうことなのかもしれない。あっち行ったりこっち行ったりせず、宮沢賢治のなりたかった人のように、いつも笑っていられるような強さが僕にも欲しいし、その為には自分自身に嘘をつくことだって必要なのだ。