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THINK ABOUT SOMETHING.

ラストステージとしてのあるがまま

自然状態を神聖視する思想がある。どうやらルソーはそう主張していないみたいだが、この考え方はある程度流通しているように思う。でも自然状態って言い換えればアンフォルメル(Chaos)だから、自由や幸福なんてそこにある訳がない。

 

自然状態の対義語はおそらく『終末状態』に当たる。それは人間が、言い換えれば唯一言葉を使える動物だけが、世界を導いていくその果ての世界を意味するが、僕は宇宙的事故が起こらない限り万物は進展する、という考え方だから、自然状態と正反対の方角こそを神聖視する。

 

自然状態は逆説的にフレームワークを有し、その対義語の終末状態を連続的に演奏することができない。ピアノの前に座らされて、ランダムウォークが名曲を描く可能性は、ゼロに等しいを超えてゼロなのだ。瞬間的に名曲の一部を鳴らしたとしても、連続的には滅びていくのだ。それがフレームワーク

 

翻って終末状態とはフォルム(Order)のことだから、フレームワークがなく、名演奏は永遠に鳴り響いていく。以前の言い方を借りれば『無限が無限に肯定されていく状態』で、それは三島が言うように『不滅』なのだ。有限と無限。滅びるものと滅ばざるもの。どちらを目指すべきかは明らかだろう。

 

また自然状態としてのあるがままであれ、終末状態としてのあるがままであれがあって、前者は天然の延長線上でのみ語られ、後者はハードウェア的な焼き付きの帰結として語られ、それは例えばキース・ジャレットの完全即興のようなものだ。即ち『天才には許されざるものがない』のだ。

 

どこへもどこまでも、いつでもいつまでも、肯定が止まらない。如何に動いたとしても全て肯定されることを宿命付けられた、聖なるあるがまま。これこそが終末状態・フォルム(Order)・無限なのであって、これらを全て反転させた対義語の方角に何を期待できるというのか。

 

本当に純粋な意味での天然からはキース・ジャレットは生まれない。素質はあったかもしれないが、それだけでは素養は備わらない。陰徳陽報ではないけど、陰で『かくあるべし』を焼き付かせ、陽の目を浴びる舞台で『あるがままであれ』とする。ここ(陰陽)を混同するからややこしくなるのだ。

 

プロセスとしてはかくあるべしでも、終末状態それ自体はあるがままであるべきなのだ。芸術家に限らず、人間としてそこまで行くことができれば、きっと世界は俄然楽しいものになるだろう。何を行っても肯定と紐付けられ、無限が無限に肯定されていくステージを、ただあるがままに歩いていく。

 

ちなみにベルセルクの『あるがままであれ』がフェムト的な意味での『かくあるべしとの合致』であるならば、それは無理だ。それは何の素養もない少年がキース・ジャレットの完全即興を描くことと同義で、そう考えると無数の矢がグリフィスに当たらなかった描写でベルセルクは終わったのかもしれないな。