デュシャンこそアート
ダリを知り始めた当初は凄く好きだったんだけど、最近ではシュルレアリスム、ダダイズム、アンフォルメルに否定的な立場を僕は取っている。でもそのことと例えばシュルレアリストが否定されることとの間に、一対一の因果関係はあるのだろうか。
僕が言いたいのは、シュルレアリスムが単にランダムウォークと結び付いている間は、終末状態からの退行ないしは劣化としてしか成立しないという意味において、それは駄作なのだ。ダリが比較的評価されている理由は、ランダムウォークに見せ掛けたフレームワークの殺し屋というギャップにあると思う。
本来ランダムウォークはフレームワークを殺せない。言い換えれば、有限の檻から脱獄することができない。その不可能な立場のものが不可能を突破せしめたと思わせる詐欺師がダリであり、このギャップはロールキャベツ男子じゃないけど、その日暮らしの大衆には間違いなく受けがいいのである。
アンフォルメルがフォーマルになる。この世紀の大嘘を差し置いてダリは語れないし、それは閉塞感の最中に居る人達から一定のフォロワーを生んだと思う。ダリに傾倒した当時の僕もその一人だし、しかし有限が無限に肯定されていくという矛盾には、割と早く気付けたと思う。
あるいはそれに気付きながらもそれに気付かぬフリをする、即ち無限に傾倒しながらも、言い換えればアンチ・シュルレアリストになりながらもシュルレアリストのフリをするという、ダリが計算した嘘のフォロワーではなく、ダリと同じ打算ができる本来のフォロワーになりつつあった。
そういう意味では僕は初期の頃からシュルレアリストでも何でもなかったし、それを志向しながらもダリのついた大嘘をフォロー(追体験)するという、詐欺師の仲間入りを果たすだけに終わった。もちろん僕の作品にそれだけの強度はないけど、ベクトルとしてはダリの詐欺と統一されていた。
おそらくそういう諸々もあって、僕はある段階でダリが嫌いになったけど、有限は無限にはならないという批判、無限に肯定されていくシュルレアリストは矛盾であるという批判、言い換えれば評価されるシュールはそれ自体が矛盾であるというダリ批判は、シュルレアリスム否定へと繋がっていく。
そう考えるとシュルレアリスム否定とシュルレアリスト否定との間には、一対一の因果関係があるし、僕が芸術において一つの審美眼としている『終末的か否か(それはオリンピックか)』にか弱く抗う者として、まるで火に入る蚊の如くして、即ち火に非ざる者として、容易く滅んでいく。
以上のようなことから、秀でたシュルレアリストの一部を切り取って、彼を特権的に評価するということは無理なのだ。彼がシュルレアリストかどうかも怪しいし、本当にそうであるならば評価され得ないという、どちらに転んでも詰みの状態。もちろんこれは僕の評価軸に限られた話ではあるけども。
でもここまで書いといて何だが、ダリは一級の芸術家だと思う。デュシャンにしたってアンフォルメルに見えるけど到ってフォーマルだし、あれは外見的なフレームレスと内面的なフレームレスが一致した稀有な例。鮮明な前者を導く後者は極めて珍しく、彼こそステレオタイプな芸術家像に相当する。
純粋な意味でのアンフォルメルは、フォーマルな無限肯定には絶対届かないし、デュシャンが評価される限りにおいてそれは一級であり、フォーマルということなのだ。そこに理性的に到達しても本能的に到達しても芸術家には違いないが、後者を芸術とする神話に沿えば、デュシャンこそアートだとも言える。