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THINK ABOUT SOMETHING.

差異とアウフヘーベン

こいつには敵わないという相手の下位で棲み分けするのではなく、こいつには敵わないという相手と水平に棲み分けすること。世界はこの意味での水平移動において無限なのである。

 

つまり垂直移動――ボルトを頂点にその下位を万人が走るようなもの――は有限で、頂点あるいは限界を越えることがあり得ない。人が100mを5秒で走る時代は生身である限り永遠に来ないし、オリンピックの勝者をピークとした有限構造こそが垂直移動なのだ。

 

何故こんなことを考えたのかと言うと、最近ルーマンの社会システム理論について噛み砕いて聞かせてもらう機会があり、その『差異』という考え方と『アウフヘーベン』という考え方が相容れ得るか、という疑問が生じたのだ。僕はヘーゲルを何も読んでないけど、これは垂直移動に適用できると仮定する。

 

如何なる修練を積み、如何なる食生活をし、如何なるフォームで走るかという議論は垂直移動だ。つまり統一性に達する。オリンピック選手が総じて同じ動きに見えるのはアウフヘーベンされた証拠だし、そこから外れれば必ず記録は退行する。僅かな差異の生き残りは世界に漂う偶然性の言い換えに過ぎない。

 

つまり外的なもので内的なものではない、言い換えれば偶然的なもので必然的なものではない、あるいは現実であって意志ではない。路上の凹凸であったり、風であったり、喧騒であったりするものの総称がそれで、意志そのものは別にあるのだ。即ち差異は内的には無きに等しいのである。

 

もし統一性なんてものがあればテーマ化されたコミュニケーションは収斂すると友だちは断じたが、実態としてコミュニケーションは永遠であり、それをどう捉えるか。例えば『速さは正義だ』という思想があって、その異論が無限に創発されるという考え方に僕は異論しない。

 

これは『速さ』という言葉の定義が先ず以て広過ぎて、それをワンワードの述語で紐付けた場合、逆説が無限に創発されるのは当たり前だからだ。性善説とか性悪説とかもその類で、『人は善だ』とか『人は悪だ』とか言い出すと、見解は無限に創発されて当然な訳だ。するとここにカテゴライズが始まる。

 

『その速さは正義』『この速さは恥』という類に、細分化されていくごとにその銘名が矛盾なく断じれるようになる。つまり差異が死んでいく訳だけど、異論の余地のない然る統一性の領域は、今日の冒頭のツイートの『こいつには敵わない』という部分に相当し、その下位での差異は差異ではなく誤謬だ。

 

究極にフォーカスされた微視の世界には統一性なるものが、あるいはその近似が存在するように思う(その速さはXでもYでもなくZ)。対してその水平の差異は『差異を差異に変換する』というルーマンの言説に接続できるように思う(その速さはZでありこの速さはA)。

 

つまりアウフヘーベンも差異も棲み分けができているのだ。前者は垂直移動として有限に、後者は水平移動として無限にコミュニケーションを続けていくのである。

 

全知全能の不可能性は万人のテリトリーを万別に約束する。つまり完璧になれないからこそ誰もが約束の地に行ける(=救われる)のだ。これは僕が思うに先天性信仰に通じ、何故なら後天的に届くところに万人のテリトリーがあれば万別(固有)のものではなくなるからで、矛盾となり、不可侵ではなくなる。

 

この『私以外の総てに対する私(最たる差異)』とでも言うべき固有値アウフヘーベンさせる。それを見つけ出すことは並大抵のことではないが、理論的には万人にそれが必ず存在する。実態的には水平移動(差異の差異への変換)を繰り返すうちに自然とフィットするもの、というのが自分の実感ではある。

 

要は『押してダメなら引いてみろ』を360度に100万回繰り返せば、大抵のものは並大抵のものではなくなるのである。