イメージの動体
若い頃というのは、絶対に交際できないという前提を無視した理想の相手を想定しながら自慰をする。性器を羅針盤に性的興奮を検索し、最高峰のそれで自慰する訳だけど、『世界に二度と同じことは起こらない』という前提で行けば、この自慰は絶対に再現できない。
つまり日々似たり寄ったりの自慰をしながらも、日々若干の差異を生み出していく。言い換えれば理想が日々すり替わり、その中で性的偶然性が開き、俗には『目覚める』とかいう言い方をするけど、思いも寄らなかったフェティッシュに目覚めていく。そしてまた理想がすり替わる訳だ。
噛み砕けば自慰はセックスと違って妥協する必要がないから、常に性的興奮の最高峰を見出そうとする訳だけど、歴史の一回性により、その見出そうとするものが毎回微妙に変容していくということだ。イメージとしては究極の点(理想)があって、そこを中心とした円周上をうろついているイメージ。
但しこう書くとその円周上をぐるぐる回り切れるイメージになるが、そうではない。この円の直径は確かに狭いだろう。広ければあらゆる性癖を包括してしまうからね。但しその狭い直径から来る全長の短い円周において、(僕が考える世界の無限性により)全ての性癖を認識することは絶対にない。
つまりミクロな視点では円周上の隣の性癖が全く違う性癖を示し得る訳で、その隣の性癖も同様にそうなる訳だ。円周の全長は有限でも、その一点一点は無限に細分化でき、且つその一点一点の全てが全く違う性癖を示し得る。そしてその一箇所に留まることはできず、絶えずぐるぐるせざるを得ない。
これこそが『性癖の変容の一メカニズム』ではないか。もちろん現実的になるとか、飽きが来るとか他にもメカニズムは働いていて、要因を一つに還元はできないけど、このメカニズムの存在は仮に真なら大きいと思う。まあ簡単に言えば『万物は流転する』ということを言ってるんだけどね。
おそらく推敲の仕組みもこれだよね。頭の中でイメージがあって、それを一度言葉にする。もう少しいい言葉にしようとして、またイメージを思い出す。でも世界に二度と同じことは起こらないから、このイメージは微妙に変容する。それに対し見出す言葉も同時にぐるぐる変容する。
ここにも究極の点(理想)があって、その周りをイメージが渦巻いている訳だけど、この時隣にあったイメージが元のところのイメージと全く違う世界観を示し、それが魔法的になるということは起こるのだ。僅かな言葉の組み合わせの差異により、遥かなイメージの変化を見せるということは起きるのだ。
仮に世界に同じことが二度起きる、あるいは起こせるのなら、そこに万物は留まり、流転しなくなるかもしれない。そういう意味では『万物は流転する=万物は推敲する』ということでもあるし、より高次の世界に行ける今の世界構造も僕は好きだ。もちろん永遠平和的な世界観に留まりたい心理もあるけどね。
僕の好きなコピーライティングもこの『隣のスペシャルを見出せるか』にかかっていると思う。魔法使いならぬ、言葉使い。それは性癖の変容・推敲のメカニズムと同じところから来るもので、隣のところならぬ大それたところに行くのはむしろ『邪道』なのだ。神は細部に宿るに反逆している訳でもあるし。
肉眼の解像度は年々衰えていくが、心眼の解像度は年々増していく。それに伴って隣のスペシャル・細部のスペシャルも見出せるようになっていく。この解像度の増加にも『差異にならざるを得ない』というルーマン的なものが絡んでいるように思うし、日々の差異が世界を次第に開けさせる。
こういう文章を書けていること自体、僕の世界が次第に開けて行ってる証拠。永遠平和的な世界観に留まっていたら永遠に書けることのない世界を示している実感があるし、差異によってここまでやって来たのだ。だからこれからも差異と上手く付き合い、僕の世界観をもっと開けて行けたらな、と思った。