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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

音夢的国家論

以前にも似たようなことをつぶやいたが、愛の本質は『贔屓』ゆえに、万人に隣人愛を実践するという思想は矛盾している。


例えば6:4で恋人が悪いという状況の時に、隣人愛を平等に働かせて4の他人を立てるとか、普通はやらないし、仮に9:1であっても恋人をフォローするのが普通の感覚で、もし恋人をフォローしないのであればその隣人愛は捻じ曲がっている。


というかそんな隣人愛は立派でも何でもなく、恋人に失礼なだけだし、相手もキョトンとするのがオチ。繰り返すけど、愛の本質は『贔屓』だから、例え過ちを犯しても守ったり、かばったりするのが普通で、これはビートたけしも同じことを言っていた筈。


まあキリスト教の厳密な隣人愛の定義なんて知らないけど、「誰をも愛すべし」という意味なら、それは「誰をも贔屓すべし」という意味でもあるから、贔屓の枠組みが恋人、家族、国家を超えて、最終的に破綻する。平等主義の一つの間抜けな帰結と言っていい。


但し隣人愛の隣人の意味を物理的な意味で捉えるのではなく、世界の隣の国家、国家の隣の家族、家族の隣の恋人、恋人の隣の自分という具合に、精神的な隣人に絞っていくのであれば、その隣人愛は成立するし、最後はラブ&ピースになる。


これの対極にあるのが遠人愛で、それは贔屓の枠組みを壮大にするという意味ではなく、むしろ隣人を捨てて、例えば恋人を捨てて国家に与したりすること――端的に言えば愛国心――を意味する。それが逆説的に隣人を救うことになるのが、要するに、神風特攻隊だったのだ。


でも厳密に考えれば、神風特攻隊は諸説あるんだろうけど、愛国心は騙し騙しだったと思う。当時の思想教育が右寄りだったとしても、命を捧げる内心の相手は国家や国民というより、隣人だったと思うのだ。そう考えると純粋な意味での遠人愛というのは、中々成立しないんじゃないだろうか。


純粋な意味で隣人より国家を贔屓するなんてことは中々ないし、隣人を愛する(贔屓する)為に国家を愛する(贔屓する)という形でしか、遠人愛は成立しないのだと思う。そしてこの両者を統合した人達の総体がナショナリズムであり、そのナショナリズムを働かせるのが政治なのかな、と。