絶対デザイン
数あるデザインのなかから、百人中百人がそれを選ぶ絶対デザインは存在するのか……ということを考えていた。答は単純で、《人に何かを強いる》ということは本質的に不可能だから、デザインとは《選択を誘発されるもの》と考えざるを得ない。
つまり《選択を強制されるもの(選ばなくてもいいという選択肢=振れ幅が同時にないもの)》など不可能で、絶対デザインの定義はそれだから、これは存在しない。ただ絶対ではない《選択を誘発されるもの》としてのデザインあるのみ。
しかしこの誘発の水準を強制クラスまで引き上げること、選ばれる確率を引き上げていくことはできる。自分はこういうものに《フォルム》という言葉を与える。《違いが分かる》という言葉があるが、その違いもフォルムの方向に分かって初めて価値が出る。
では定番とは何か。この違いを知り尽くした人間は定番を作れるのか。答は否で、リテラシーに照らし合わせた安定のデザインは既存の定番と必ず被る。それよりも何かを破壊し、その破壊に必然性を持たせる。そういうところからしか定番は芽生えてこないはずだ。
個人的に思うのは、デザインで素晴らしいものができるときというのは大抵の場合《脱線》だ。頭のなかにラフがあり、それを具現化したところで想像通りのものに仕上がるのみ。そして人間は原則似たような思考をするから、それは誰もが無意識的に見ているものだ。
それよりも、想定になかった選択が突如として浮上するような脱線。初めに描いた完成予想図をクラッシュしてでも断行するような脱線。ここまで行って初めて《誰もが無意識的に見ているもの》に属さず、ようやく《デザイン(誰も見たことのないもの)》と呼べるものになる。
ただここまで行こうと思えばフォルムを分からなければならないのだ。それは今までのフォルムを知識的に分かっているという意味ではなく、この脱線があたらしいフォルムになるということを断言できなければならないのだ。これは先のリテラシーとは違ういちばん大切なリテラシーだ。
デザインが哲学と結びつくのは、そのリテラシーを持つものこそが哲学者(世界を開拓的に理解するもの)だからだ。自分はポストモダンに影響を受けたと思うが、構造主義の方が遥かに好きで、三島由紀夫のフォルムという言葉も構造の言い換えだと考えている。
デザイナーは三島が言うように、オリンピックの勝利と草野球の勝利の違いを理解しなければならない。例えモハメド・アリが逆を言おうとも、不可能は存在する。不可能に触れようとする行為がオリンピックであり、不可能がなければオリンピックもまた存在しない。断言してもいい。
世界には断言できる領域がある。三島はそれを《フォルム》と呼ぶ。
アイデア論
アイデアを考えるとき、課題を設定してそれを克服するという方法がある。このとき最も陥りやすいミスというのが『課題を克服したときに得られる価値』を見極めないまま克服に夢中になること。そして克服したときにカタルシスと価値の高さを混同してしまい、本来の価値付けと引き離されてしまうことだ。
そもそも。課題が簡単に見つかる時点でその課題は誰からも挑まれた過去を持つ。にも関わらず克服されることによって得られる価値が世の中に出回っていないのは、その提供価値が提供するに値しないものであり、既存のソリューションで十分に機能してしまっていて差し替えるには及ばないということ。
傘のアイデアでジェットで雨を散らすとか、逆さに開く傘とかあるでしょう。確かにこれらはそれぞれに提供価値があると思う。前者は軽量化とか折れないとか、後者は無駄に濡れることがなくなるとか。でも既存の傘と差し替えてまでこれらに買い換えようかと思えば、作者自身もそうしないだろうね。
これは作る前なら気づいたはずなのに、作った後は意気揚々としてるものだから、認めない。これが課題解決型アイデアのいちばん陥りやすいミスだと思う。それよりも課題を決めず、つまり得られる価値を限定せず、新提案を次々に考えてたまにハッとしたものを具体化していく、その方がいい。
もうひとつ思うのは、イメージイメージイメージ……で時折それを具体化させていくわけだけど、その具体化の処理速度が一瞬のものには光るものがある。つまり一瞬で即時解決してしまうアイデアの方が、時間をかけなければ解決できないアイデアよりもビッグアイデアになりやすい逆説的傾向を持つ。
割とベタなコピーに『原点にして頂点』というものがあるが、原点というのは即時解決の宝庫だから、言い換えれば自然なやりかたがひとつも枯渇していない場所だから、そこに最初に立ったものは原則頂点になりやすい。そういうところから湧いてくる怒涛の価値体系のようなものが自分は大好きだ。
フォルメルとアンフォルメル
内在確率とはつまり『それ以上禁じられる別様残率』を意味するので、許可空間が∞のとき内在確率は100%になり、許可空間が1のとき内在確率は0%になる。この内部方向というのは別様残率がなくなっていく涅槃の方向であり、外部方向とはその対極であり、フォルメルとアンフォルメルに対置される。
別様を禁じなければ現れ出ないものと、別様が生きているなかでたまたまそれが現れ出るというものは共存できない。後者が前者を指し示すことはあり得ず、つまりアンフォルメルでありながらフォルメルであるというようなことはあり得ない。そして自分はフォルメルが現すものにしか創造性を認めないのだ。
例えば針穴に糸を通すことを考えたとき、歌を歌いながらでもラジオを聴きながらでも糸を通すことはできる。これは『別様のどれでも成立し得る』ということを意味し、針穴に糸を通すことは実はそこまで別様の禁止を求めない。つまりアンフォルメルでも成立してしまうということなのだ。
ところがこれが『100mを9秒台で走る』ということになるとそうはいかない。歌を歌うこともラジオを聞くことも『無駄な別様』でしかなくなり、それらを禁じなければ100mを9秒台で走ることはできない、つまりアンフォルメル(別様主義と言っていい)ではフォルメルの代用に永遠にならないのだ。
フォルメルが現象化されたとき、例えばトリプルアクセルにしろブレイクダンスにしろその人の顔は必ず真顔で、それ以外の別様を一切認めていないという共通点がある。自分はそういうものにしか創造性を感じないし、フォルメルとは『条件ごとの模倣』と銘打たれた創造行為のことなのである。
アンフォルメルはフォルメルの代用になり得ないが、フォルメルはアンフォルメルの代用になり得る。人のしあわせは選択肢の多さだと自分は思うが、その点でアンフォルメルがしあわせになりにくいのは自明のことで、それもそのはずアンフォルメルとは何も選択していないものの名前に過ぎないのだから。
何も選択していないという選択は別様を完全に容認している。これは『選択肢を選ぶという選択肢』を持たざる選択で、その選択肢は一択(つまり最少)。フォルメルからアンフォルメルまではグラデーションで、白と黒の二値ではなく灰の多値だが、最果てのアンフォルメルとはつまりそういうものなのだ。
真心について
疑問符が腑に落ちるのが『真心』ならば、そうじゃないのが『言い訳』だ。真心はシンプルに言い放つことができるが、言い訳は何かを誤魔化す以上シンプルにはならない。長文にならざるを得ない文章というのは大体言い訳と思えばよく、論考がこれに使われたら終わりだ。
例えば上司に叱られたとき、真心で動いたことに対して叱ってきた場合は一見正論でも簡単に言い返せる。真心がよりある方がよりメタな視点でそれを見ていて、我見の狭い批判ならより広い視点から簡単にひっくり返せる。つまりその上司の批判は『的を射ていない』ので、図星にはならない。
逆に図星の場合の選択肢は二択で、それは謝るか言い訳するか。ここで謝らずに言い訳する場合、図星に感じている事実をひたすら覆い隠すので、誤魔化し誤魔化しが至る所に散見されるような見苦しい論理展開になる。そしてあるものをなきものにしようとするから、大体長文になっていく。
この『あるものをなきものにする』は実現するはずがないのに、内心でもそれを分かっているのに、あるいはだからこそその内心をひた隠しにしようと長文になり、一向にピリオドを打つことができない。そんなものが人を納得させられるわけがないのだ。
ちなみに真心の対義語は理論武装だと思う。真心で動く人間にそんなものは要らない。また真心というのは必ずしも本心である必要はない。真心というのは一種のコンディションだと自分は思ってて、どんな人間でもそこを心得れば必ずできるという信仰を持っている。そして真心は本心をいつしか越えるのだ。
本心や本音を信じるものの方がむしろズレてるというのが自分の感覚で、人間の奥深さの何も知ることができないだろう。いつも逃げ腰な旦那が輩に絡まれて嫁の前に立つ方が、他の人間がそれをするより価値がある。これは本心ではなく真心だからだ。そういう真心に惹かれる女性の方を自分は信じる。
哲学にしろ思想にしろ、本心が伴っていなくても真心があればかなりいい線行くと思っている。相手の最もなことにより最もなことで返せるのが真心だからだ。よく想い、よく考え、その輝きにおいて行動する。一見それが邪道に見えても、その輝きを示せば誰もが納得するはずなのだ。そんなことを考えてた。
Your body is a battleground
Supremeの元ネタの可能性もあるバーバラ・クルーガーのこの作品。
『Your body is a battleground』をFuturaフォントの斜体で描き、赤ボックスのなかにそれを埋めるという手法がSupremeの元ネタというわけで、SupremeもこのFuturaを使用している。
そこからインスパイアされ、『VANQUISH THE BATTLEGROUND』というコピーを思いつき、それをGodspeed You! Black Emperorのジャケットに落とし込んでみた。
バーバラ・クルーガーの作品同様左右真っ二つに分断して反転させ、赤ボックスにFuturaの斜体で描いたが、頭文字もそれ以降もすべて大文字にした点が相違点。
そもそも『VANQUISH THE BATTLEGROUND』は文章的にややおかしいが、この場合のBATTLEGROUNDはバーバラ・クルーガーのそれ(つまりYour body)を指し、そうすることで意味が繋がるので、そこに二次創作の必然性を持たせたつもりだ。
いちばん下の『ALL ORIGINATED IN THIS HAND』はダブルコピーの他方で、これは『この手からはじまるすべて』という意味でイメージの膨らみを持たせたもの。
『自分自身を征服せよ』と『この手からはじまるすべて』の間に直接的な繋がりはないが、その繋がりなき空白に個人個人のイメージが膨らむのなら制作した甲斐があるなと。
私のコピーライティング Pt.2
読み通りであるということは言葉の動線が自然であるということ、読み外れであるということは言葉の動線が自然から外れてるということ。例えば『思った通りには』と来れば、その後の言葉の動線は大抵『いかない』に行き着き、それ以外の言葉に行き着くのが動線を『外す』ということ。
読み通りの品詞グループをA、印象的な品詞グループをBとすれば、AかBで外すか、AかBを外すかのどちらかがコピーにおけるオチ付けということになる。自分は『外しは一個までルール』が基本だと思っているが、外れたものを外した時点で二つになるので、必然的にオチ付けの構造はこれになる。
前者の外しは必ずしもAかBが述語であることを意味せず、副詞でもいいわけで、また後者の外しも必ずしもAかBが主語であることを意味せず、形容詞にしてもいいわけだ。『不思議、大好き。』は『不思議』が印象的な文字列=Bで、そのあとに『読点+大好き。』と来るのが読みを外しまくっている。
そしてオチ付けのもう一つの方法として『韻を踏む』があり、それも踏襲している二重の完成度とこのインパクト。また眞木準のような造語を入れてくるやり方は基本、外しに分類されるので、『外しは一個までルール』を踏襲すれば必然的に自然な言葉の動線とくっ付くことになる。
『夢国籍でいこう。』なんかが典型例。ちなみに『ボーヤハント。』が彼のコピーでは一番好き。これは印象的な品詞グループのBに分類されるが、それ自体でそれ以上の言葉は要らないということはこれはもう外しだ。コピーにおける言葉の動線は自然に行くか、外すことで鮮明になるかの二択しかないのだ。
そして外すということが鮮明になるということならば、外しが二回あると鮮明なところが二ヵ所あることになり、注目度が分散される。これが相乗されるとすればポエジーしかなく、もしコピーがポエムではないならば、結局は一回ルールに帰ってくることになる。
言葉の動線が自然通りであるものが注目に値するには、外しが不可欠になる。そして外すことで鮮明にするためには、外す対象が不可欠になる。これらは不可分なセットであり、その成果物の優れた共通点は『全言葉が堂々としていること』なのだ。『捻り』と『優れた外し』はそこが決定的に違うのである。
つまり捻るということは堂々とできない後ろめたさや嘘があるわけで、優れた外しはそれを越えて外しながらも動線は何かストレートなのだ。『すべてのコピーはストレートであれ』というのがコピーライティングの理想。外しがスイングとすれば、その打球=言葉はホームラン級にストレートに伸びるべきだ。
モンスターは死せり
原型は違うけど、昔《無邪気さは、無敵なのさ。》というコピーを考えたことがある。このコピーに対する当時のイメージと今のイメージが変わったということについて書く。
このコピーは《夢に敵無し。》という、漢字率も含めお堅い文字列から出発したのだけど、自分が考える夢のイメージは《それ以外の全てを忘れて、それが最高であるならば、それが夢だ》というようなもの。セックスとかもそうで、そのときのエネルギーは無敵みたいなもので、他を寄せつけない何かがある。
これが当初の無敵のイメージだが、しかしこの無敵はポップなイメージじゃない。どちらかというと無我夢中で踏み外せばレイプでも犯してしまうようなイメージを含んでいる。正気と狂気の際の、天国にでも地獄にでもどちらにでも振れるところを指し示している印象だった。
ところで最近自分はつくづく《自己欺瞞はいけない》と思うようになった。例えば誰かに批判されて、真っ当なのに悔しくて反論し、自分の非を認めない不誠実さや、自分の弱点に気づき、正当化できるストーリーを作る為、平気で自分に嘘をつく屁理屈などがそれである。
他人への嘘は構わないが自分への嘘、つまり自己欺瞞はいけないということを最近よく思うようになり、嘘をつきつつもその嘘を自覚していればいいのだが、嘘をつきながら本当のことを語っているかのように自分を思い込ませるのが自己欺瞞。言い訳なんかが正にそれ。
言い訳や理由付けというのは決して人を成長させない。自分を守るという敵意があるから敵をつくる。翻って言い訳も理由付けもしない、自己欺瞞しない人は周りに敵をつくらず、その相手を承認できている状態。邪気があれば敵になり、無邪気ならば敵はない。あるいは《素直ならば》と言い換えてもいい。
正しいことは正しいと受け入れ、間違っていることは間違っていると素直になる。これをやり続けると誰に何を言われてもまるで動じない自分と、周りに敵がひとりもいない自分ができてくる。この境地のことを今は《無邪気さは、無敵なのさ。》と考えるようになったのだ。
糸井重里の世界観はマザーを見る限り、この《無邪気さは、無敵なのさ。》を体現していると思う。普通のRPGと違うのは《最強ゆえに無敵》ではなく、《敵無しゆえに無敵》という主人公が世界を救うところ。前者はやっつける相手をモンスター化し、後者はただただおちゃめなやつらと見做す。
前者の無敵が三島由紀夫とすれば、後者の無敵が糸井重里かもしれない。なんとなく前者は極めて困難で、後者はシンプルと思いがちだけど、そんなことは全然ない。これは言い換えれば《自分で自分を守らない》ということだから、他者をモンスター化するような逃げ場はない。
実際は悪いのに《自分は悪くない》と考える場合、相手がモンスターになり、実際は悪いのに《相手は悪くない》と考える場合、自分がモンスターになる。無邪気というのは無欺瞞とも言い換えられるから、良いものは良い、悪いものは悪いと見做すだけのこと。
そうすればモンスターは全滅するが、これは並大抵のことではない。もちろん向こうからイヤでも食い込んでくるような悪者はいるけど、ここで《相手は悪くない》などと考えず、《悪いものは悪い》と見做せばいい。そして相手も《自分は悪くない》などと考えず、《悪いものは悪い》と見做せばいい。
この原理を遍く行き渡らせることができれば、世界からモンスターは全滅する。個人ですら遥かに難しいことを行き渡らせるなど夢のまた夢だが、マザーシリーズに根付いている思想はこういう感じのような気がするし、糸井重里の生きかたもそんな感じがするな。