BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

真心について

疑問符が腑に落ちるのが『真心』ならば、そうじゃないのが『言い訳』だ。真心はシンプルに言い放つことができるが、言い訳は何かを誤魔化す以上シンプルにはならない。長文にならざるを得ない文章というのは大体言い訳と思えばよく、論考がこれに使われたら終わりだ。

例えば上司に叱られたとき、真心で動いたことに対して叱ってきた場合は一見正論でも簡単に言い返せる。真心がよりある方がよりメタな視点でそれを見ていて、我見の狭い批判ならより広い視点から簡単にひっくり返せる。つまりその上司の批判は『的を射ていない』ので、図星にはならない。

逆に図星の場合の選択肢は二択で、それは謝るか言い訳するか。ここで謝らずに言い訳する場合、図星に感じている事実をひたすら覆い隠すので、誤魔化し誤魔化しが至る所に散見されるような見苦しい論理展開になる。そしてあるものをなきものにしようとするから、大体長文になっていく。

この『あるものをなきものにする』は実現するはずがないのに、内心でもそれを分かっているのに、あるいはだからこそその内心をひた隠しにしようと長文になり、一向にピリオドを打つことができない。そんなものが人を納得させられるわけがないのだ。

ちなみに真心の対義語は理論武装だと思う。真心で動く人間にそんなものは要らない。また真心というのは必ずしも本心である必要はない。真心というのは一種のコンディションだと自分は思ってて、どんな人間でもそこを心得れば必ずできるという信仰を持っている。そして真心は本心をいつしか越えるのだ。

本心や本音を信じるものの方がむしろズレてるというのが自分の感覚で、人間の奥深さの何も知ることができないだろう。いつも逃げ腰な旦那が輩に絡まれて嫁の前に立つ方が、他の人間がそれをするより価値がある。これは本心ではなく真心だからだ。そういう真心に惹かれる女性の方を自分は信じる。

哲学にしろ思想にしろ、本心が伴っていなくても真心があればかなりいい線行くと思っている。相手の最もなことにより最もなことで返せるのが真心だからだ。よく想い、よく考え、その輝きにおいて行動する。一見それが邪道に見えても、その輝きを示せば誰もが納得するはずなのだ。そんなことを考えてた。