読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

民主主義と革命

どっちつかずな時に何を重んじるかというと、それは隣人だ。両方が隣人の時は少し判断に悩むが、基本的に身内を贔屓するのが普通だ。例えば身内と赤の他人が口論していて、相手の方が正しいとしてもそれに乗る人など居ないだろう。普通は身内を擁護するし、合理的判断が全てではない。


そこから少し飛躍して考えると、家族や恋人が隣人とすれば、世界というのは赤の他人で、時として対立項だ。例えばゲームの大神で生贄を差し出すオープニングが在るが、世界側(家族以外の村人)の言い分は「全員よりも一人の犠牲を」だけど、身内はそんなこと関係ない訳だ。


ここで身内が世界側の論理、客観的な正論に流れた場合、それを「魂を売った」ということになるのだと思う。そう考えると魂というのはロジックでは片付けられないイロジカルなものだし、主観的な動機で構成されたある一つのカラーだ。世界愛とは異なるバラバラのカラーだ。


隣人愛(固有のカラー)と世界愛(万有のカラー)が矛盾しない状態を目指すのが、政治だ。そして時のオカリナのZ注目みたいに複数の問題を同時に解決するのが、政策だ。但し戦争が起きるのは世界愛が落ちぶれた時だから、原則世界を優先して政治は展開される。デモより戦争の方が悲劇だからね。


TPPもそうだし、結局最後は個人よりも世界を優先するのが政治の宿命だ。デモのレベルが半ば去勢されている日本だと尚更のことで、固有性よりも万有性を重んじるのが今日の最初のツイートと相対する所だ。


そういう意味では最終的に政治は冷ややかなものだし、それが利権の建前になってるケースもかなり在ると思う。そして固有性の側、万有性の側どちらを立ててもいいし、あるいは両方立ててもいいから、その建前をぶち壊すのがいわゆる「革命」だろう。


革命の定義がこれ一つに収められるとは思わないけど、取り敢えずこの視点に立つと革命は固有性の側を立てることの方が多くなる。利権者は万有性(世界愛)を盾にするんだから、当然のことだ。でも世界と個人では多勢に無勢だから、超スローなサイクル(一瞬の浮きと永い沈み)で終わらざるを得ない。


僕はそこに民主主義の限界を感じる。永い沈み(日常)を利用され、一瞬の浮き(革命)はなかったことになり、事なきを得る。電通か何だか知らないが、マスコミの偏向報道にしたってそうだし、政治サイドは都合の悪い問題のフェードアウトに長けている訳だ。


それを追い越す速度で革命が多発する時代も、ちょっと想像できない。だから繰り返しになるけど、民主主義には限界が在るし、民衆の民意と政治の本意が総意として重なることはなく、形だけの民主主義にしかなっていない。


要するに革命の弱体化と民主主義の理想化というのが、同列に語られている訳だ。革命が中々起こらないのは民主主義が理想に近付いているからだ、という感じでね。でもそこに政治サイドの印象操作が在る限り、これは同列に語っちゃいけないものだ。


民主主義の民意が任意のものだという幻想は、僕には全くない。マスコミの偏向報道が全てを台無しにしているからだ。革命が中々起こらないのも民意が飼い慣らされているからに過ぎないし、今の政治が理想的だからだと思う人なんて先ず居ないだろう。


友達の発言を借りれば、飼い慣らされた敷地で幸せそうに暮らしている。全員とまでは言わなくとも、大体の人間が首輪に繋がれた状態を良しとする。それが今の日本人の気質なのだとすれば、政治は地味ながら独裁の形を取る。


でも完璧に悲観することはない。独裁の前に「地味」と付け加えたのは、やりたい放題にはならないと思うからだ。民意が半ば去勢されていても、政治が明らかな暴挙に出ればさすがにみんな立ち上がる。要するに、僅かながらにも一定の民意は在るし、見えない押し引きは生きている。


形だけの民主主義が本当の民主主義になるとすれば、そこを可視化するしかない。操作されていない純粋な民意というものを、そこから取り戻すしかない。そして押し引きのボーダーラインを国を動かすレベルまで引き上げることができれば、それが「民主主義」だ。


意識的な民意は仮死状態でも、無意識的な民意は純粋なまま生きている。段々それも侵食されていくのかもしれないが、今確かに言えることは「それは在る」ということだし、操作され得る一線を甘く見られないようにすること、それが「僕等の抵抗」だと思う。