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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

透明の決定論

人は誰かの評価を翻し、「見直した」とよく言う。あるいは何かの事件が起き、「あの人がまさか……」ともよく言う。これらは最後の審判とは程遠い審美眼に過ぎなかったことの露呈であり、言い換えればほとんどの人間が最後の審判と無縁であり、芸術家ではないのである。

 

僕の親友はいろんなことについて、「分からない」とよく言う。理解できないという意味ではなく、人間がどう転ぶかなんて誰にも予測がつかないし、「あの人がまさか」という発言は『分かった気になっていた人の幻想が解かれたに過ぎない』ということで、それが傲慢ならば、親友は謙虚ということになる。

 

確か団鬼六が「裏切る人は裏切るし裏切らない人は裏切らない」と発言していたと思うが、僕は『やる人はやるしやらない人はやらない』みたいな論法が苦手だ。蝕のグリフィスの解釈は諸説あるだろうけど、仮にあれが裏切りだとして、あの彼が裏切る側ならば誰でも裏切るだろうというのが僕のイメージ。

 

そう考えるとベルセルクは人の傲慢な審判を退け、最後の審判では如何なる人間もどう転ぶか『分からない』ことを示した稀有な作品だ。僕は蝕のグリフィスに善悪はないと考えているが、もしあの彼岸に善悪を定義してしまったら、万物が善ないしは悪に傾く異常事態が起こってしまう訳だ。

 

そしてそういう『分からないもの』としての最後の審判を分かろうとする行為が芸術であるならば、ベルセルクという作品は少なくとも蝕までは完璧なアートに近かったし、前述した傲慢な人達に対する極めて謙虚なアンチテーゼということになる。即ち「まさか彼が……」の数と芸術性は比例しているのだ。

 

要するにあれは『善悪の彼岸』であり、またあるいは『日常からの究極の乖離』であり、分からないもの(「まさか彼が……」)の総数が三浦建太郎の審美眼の妥当性を強調する結果となった。誰もが分からないところのものを神と分かち合う神なる一手がそこにはあり、彼自身もまた一人のフェムトなのだ。

 

日常は彼岸を隠すが、それは彼岸の不在を示すのではなく、隠喩しているというだけのことで、また誰もがそうなるところのもの――即ち善悪の彼岸――を善悪に振り分けるのは決定論的誤謬という意味において、最後の審判――究極の本質――は無色透明であり、これを『透明の決定論』と呼ぶことができる。

 

即ち最後の審判が最高の審判だと仮定して、しかし最後の審判が取り扱うところの本質が究極的には無色透明という意味において、僕達は決定論的であり、それは翻してみれば『何もかもが許されている』ということなのだ。僕達は決定論的であるがゆえに自由であり、天国地獄など存在する訳がないのである。

 

最後は誰もがそうなるのであるならば、そうならないところで戯れればいいし、かと言ってそこに審判を適用すればそれは本質的ではない、言い換えれば最後の審判ではないという意味において、神の審理は結局無効なのだ。僕達は究極的には透明であり、究極未満のところにむしろ『カラー』が存在するのだ。

 

そして肉体的であれ精神的であれ、透明になろうとする運動がオリンピックであり、神の近似値なのだ。神は透明であり、人も究極的には透明であり、その同一性の名の下に万物は肯定されざるを得ず、振り分けられたカラーから透明性を取り戻す闘い、それが最も本質的な闘いであり、自由の最高峰なのだ。