BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

芸術

絶対デザイン

数あるデザインのなかから、百人中百人がそれを選ぶ絶対デザインは存在するのか……ということを考えていた。答は単純で、《人に何かを強いる》ということは本質的に不可能だから、デザインとは《選択を誘発されるもの》と考えざるを得ない。 つまり《選択を強…

フォルメルとアンフォルメル

内在確率とはつまり『それ以上禁じられる別様残率』を意味するので、許可空間が∞のとき内在確率は100%になり、許可空間が1のとき内在確率は0%になる。この内部方向というのは別様残率がなくなっていく涅槃の方向であり、外部方向とはその対極であり、フォル…

人間の振り幅

バランス論の延長。人間の『振れ』を見たくなったら、神経質なこと、言い換えれば『発散』ではなく『収束』をやるといい。例えば針の穴に糸を通すとか、全方位に動ける(発散)にも関わらず、一筋の動線に束ねる(収束)というようなことをやればいい。 これ…

創作方法論

例えば『人々』というただそれだけのことを『Understar Mages(星の下の魔法使いたち)』と言い換えれば雰囲気が出る。この時『人々≒Understar Mages』な訳だが、『=』ではなく『≒』なところがミソで、あまりに=から離れ過ぎるとそれは原像のモザイクにな…

everything to one thing.

アルマーニの「偽物が嫌いだ」という発言をたまたま見つけたが、『本物=だらしなさの対極』にあるなといつも思う。もしだらしない方向に本物があるのなら、本物は自動的に無限生産されるものということになるし、しかし本来自然状態に文化などない。 だらし…

フォーマリズムとアンフォルメル

オリンピックというのは完全性に近づく行為だが、完全性そのものには全く面白みがない。例えば完全性はコンピュータで実行可能だが、理想のフォームをミニマルに寸分の狂いなく繰り返し、道の完全な中央を走り続ける100m走のCGがあっても、何が面白いのか。 …

遠くか否かが問題なのだ

無限性原理が導くのは『類似の最終的な無効化』であり、即ち類似は問題ではなく、遠くか否かが問題なのだ。例えば角度が1度違う直線が二つあるとして、それらはやがてお互いの隔たりをとてつもなく大きくしていくだろう。これはリニアだが、初期値鋭敏性を得…

芸術量産機

昨日の続きだが、例えば『ピアノが上手くなりたい』という初期値のアトラクターの場合、これはもう才能依存だ。熱量をどれだけかけても『超えられない壁』が出てくるし、しかしそれをストレンジアトラクター的に解釈すれば、目的外の約束――即ち芸術の爆発――…

『継続は力なり』の理論的証明

『継続は力なり』を理論的に証明しようと思う。先ず東にプランク長進んだ時の東方向への移動量は、元の地点よりプランク長。この移動線を北東ないしは南東にずらしていくと、東方向への移動量は徐々に狭くなり、北ないしは南のゼロをピークに無限に細分化す…

オリンピック的視座

燻し銀のあらゆる経路を経た後の黄金としてのゴール。あるいはゴールそれ自体が直接的にやって来るケース。前者を『肉迫型直観』と呼ぶとすれば、後者は『純粋型直観』であり、世の中で一般的に言われているインスピレーションというのはこの純粋型に相当す…

詩とブランディング

過去の経験則から大体の当たりをつけられる状況の多様化は、小説家を現実の最果てに誘う。寺山は『天才だけが遠くへ行ける』みたいなことを言ってるが、この当たりを外せば誰でもいくらでも遠くへ行けるが、そこに現実性はなく、深みもなく、求めるものが違…

デュシャンこそアート

ダリを知り始めた当初は凄く好きだったんだけど、最近ではシュルレアリスム、ダダイズム、アンフォルメルに否定的な立場を僕は取っている。でもそのことと例えばシュルレアリストが否定されることとの間に、一対一の因果関係はあるのだろうか。 僕が言いたい…

ラストステージとしてのあるがまま

自然状態を神聖視する思想がある。どうやらルソーはそう主張していないみたいだが、この考え方はある程度流通しているように思う。でも自然状態って言い換えればアンフォルメル(Chaos)だから、自由や幸福なんてそこにある訳がない。 自然状態の対義語はお…

2045年問題論

物理学の世界では尺度の最小単位をプランク長として定義しているが、例えば狭い正方形があるとしよう。この正方形の中心から右半分の180度の範囲内で、無限に細分化した各角度の線を引くとする。すると右方向への移動量は、プランク長を更に細分化したものと…

最後の審判 ~その本質と実態~

心象を究極まで篩にかけ、現象がにじみ出るか否かで最後の審判を下すのであるならば、誰もが同じ踊りを為すという意味において最小値ないしは最大値は無邪気であり、その中間値が邪気ということになる。即ちグリフィスの蝕における最後の涙は、最高度の子供…

透明の決定論

人は誰かの評価を翻し、「見直した」とよく言う。あるいは何かの事件が起き、「あの人がまさか……」ともよく言う。これらは最後の審判とは程遠い審美眼に過ぎなかったことの露呈であり、言い換えればほとんどの人間が最後の審判と無縁であり、芸術家ではない…

最後という言葉は幻想だ

音楽制作の一手にも、小説執筆の一手にも、果たして神の一手は存在するのか。仮に歴史的終末における最高傑作への一手一手がそれだとするならば、そこには多分に『本質の見透かし』が要求される筈で、トライアンドエラーの無限分のボリュームがその一手には…

ゼルダと最後の審判

ミスチルの歌詞じゃないけど、気がつけばそこにあるものなのか、気がつけば何も残らないのか、それこそが美の実態で、前者が『静かなるもの』だとすれば、後者は『虚ろなるもの』であり、美は本来前者の側にある。即ち、美とは飾らなくてもそれ自体で存在す…

words are very unnecessary

ゼルダが偶然の産物か必然の結晶かということについて、たまに考えるんだけど、もちろん両面あるのだとしても、どちらかと言うと後者寄りのような気がしてきた。 クリティカルがあんまりないという側面はあるけど、任天堂ゲームのハズレ率の低さは割と凄い。…

何処からでも何処へでも何処までも

気を張って気を張って線形化されたその究極に何ものかが宿る無意識の随意化とは、自意識の明確化を意味し、また何ものかとは快楽を意味し、それは言い換えれば社会的性癖の露呈を意味する。それは射精付近の男性器と快楽の関係に近く、勃起していない無快楽…

確率を征する闘い

人は全確率に対し普遍的に対応できるものの中で、最高のキャラクターを選ぼうとする。例えばかなり強烈な武闘派タイプでも、マイク・タイソンを目の当たりにすれば小さく縮こまる訳で、そういう末端の確率も含めて普遍的に対応できるものの中で、最高のキャ…

ロジックとバーニング

シューティングゲームのトッププレイヤーは、自分のプレイを録画して無意識的な悪癖をなくしていくと聞いたことがある。要するにこれは理想論だけど、少なくともシューティングゲームの中だけでは「我に無意識なし!」と言い切るという訳だ。 折り返し地点は…

光のデフューズ

原体験的紐付けにはポジティブとネガティブがあるけど、シンボライズ(普遍性)からデフューズ(一回性)までの射程で後者と判定するに十分なのは、ネガティブであることが多い気がする。これは負の理論にも繋がり正の要素には限界がある、即ち判定不十分に…

理想はデジャヴレス

考察する価値があるかはともかく、僕がコピーを書く時と、普通の文章を書く時の頭の使い方には違いがあるみたいだ。結論から言えばコピーを考える時、僕は『発散しない程度に想像の端っこを取りに行く』ということをやっていて、そうすることで独創的にもな…

PUNK IS BEAUITIFUL!

できないことをできるように願うのが『パンク』なら、轟き渡るシャウトだけがパンクではないし、静かなるシャウトもそれはそれでパンクだ。そう考えると世の中には結構な確率でパンクが見え隠れする気がしてきたのだ。 何故こういうことを考えたのかと言うと…

アート・ビル・ソリッド

虚無はあの手この手で同一化を阻み、不一致を好むが、それが神の仕掛けた最高の戦場であり、然る修羅巷の不可抗力の究極に、究極だからこそそこだけに唯一者の王座が存在するのである。しかし昨日も述べたように不滅の王座などあり得ないから、逆に言えば確…

グリフィス的転回

昔たまたま見かけたツイートに、『完璧な演奏よりミスをした演奏の方が評論家に受けがいい』みたいな内容のものがあった。厳密な意味でのノーミスというのはあり得ないけど、そこに肉薄するオリンピック的要素から外れたものが評価される図式だ。 記録的競技…

唯一者と絶対者の狭間で

そんな言葉があるかは分からないが、僕は無限論者として『絶対なるものを信じない』というスタンスを取る。例えばあるものとあるものの中心、あるものとあるものの同期といった、相対性がなくなる現象を僕は信じない。 前者は例えコンピュータ・グラフィック…

必然への集合

二人が相当し、その内二人に通底する美学・原理・了解が2/2で、一人が相当し、その内一人に通底する美学・原理・了解が1/1で、2/2(二人に通底するもの)と1/2(二人に通底しないもの)の差分が1/1への伸び代(拡張終末の根拠)になる。 即ち1/1という唯一者…

impossible is nothing

僕的用語における虚無というのは『自由意志(無限)の根拠』ないしは『必然性の究極の隣人』なので、『可能の限り』というのはほぼ『虚無の限り』という意味になる。また前者の虚無はアプリオリに存在すると思っているが、後者の虚無は最高峰の拡張終末でし…