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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

輪廻の何たるか

今日は久々に友達と会ったが、なんか哲学的な話を繰り広げることになった。人間の死後その人間の完全なコピー(≠クローン)を作ることができれば、それは生まれ変わりとなるのかという話だった。

 

根本的な前提として、僕は複製というものを昔から信じない。コンピュータの複製は一見完璧なコピーに思えるが、ハードディスクにあるファイルをコピーしたところで、それが元々のファイルとの同一性を保持されるとは僕は考えない。物理的位置が違うからだ。

 

それを最初に僕が言うと、友達は「僅かな差異があっても同一人物と言える可能性は残る。それは昨日の自分と今日の自分に僅かな差異があることからも明らかだ」と言った。要するに死者の99.999999%ぐらい再現できていれば、輪廻し得るのではないかということだ。

 

そこで僕はバタフライエフェクトの話を持ち出した。諸説はあれど、あの概念から学べることは『あるものが遠くのものへ影響を与える』というところではなく、『万物は万物を動かす』というところだろう。その視点で言えばこの理論は破綻してしまうのは疑いようがなかった。

 

僕が今ドラゴンアッシュを聴いていることがブラジルの全ての人の思想形成に影響を与えない訳がないし、これはオカルト的な話でも何でもなく、これが分からなければ哲学を一からやり直した方がいい。バタフライエフェクトってそういうことだし、複製という言葉の本質は『時間を止める』ということ。

 

彼は超未来的な話として、今からでは考えられないような技術で複製は実現でき得るという言い方をしていたが、複製の空間的な問題は依然として残るだろう。万物は流転し、宇宙は膨張する。神即自然は絶えず変化するし、その中で複製するという行為を『限れば済むのか』という問題だ。

 

神即自然のその全体を複製するということは、宇宙が膨張する限り、実現し得ない。同じ世界状態――ニーチェが言うところの永劫回帰――は永遠に起こらないし、その中である限定的な複製をしたところで、それはバタフライエフェクト的にキャンセルされる。即ち限定された永劫回帰も、ない。

 

要するに究極的な複製技術が存在したとして、それを行使し、それが完了した後もう一度それを行使しても、一度目のそれと二度目のそれとでは宇宙の大きさが変わっている以上、バタフライエフェクト的に等価にはならないのだ。その局限された意図的永劫回帰は、その他万物によってキャンセルされるのだ。

 

だから複製は時間を止めるということ以外では、実現し得ないのだ。ここまで来ると少なくとも『同一人物としての輪廻』は先ずないし、『僅かな差異で同一性が消えることはない』という主張も、蝶が竜巻を起こし得るという視点からも受け入れがたい。細胞一つのミクロの誤差で、全ては変わるのだ。

 

それに仮に僕が80年生きれるとして、60×60×24×365×80=2522880000秒を生きれる訳だけど、仮に時間の最小単位(この言葉は嫌いだが便宜的に)が1秒ならば、25億回以上の自我のページがある訳で、このどのページにも彼の言うコピーは属し得ないのだ。

 

この25億個の自我は全て連続性によって同一性を保証され、その連続性は神即自然も含み込んだものとして存在し、限定的にその連続を再現しようとしたところでバタフライエフェクト的には無効なのだ。だから差異論で現象の同一性を守ろうとしても、それは無理があるというのが僕の見解。

 

僕の中では結局輪廻はないという話に帰結するだけだから、彼の視点の方が希望があるんだけど、この考え方は譲れない。それでもいろんな視点が生じたし、今日は久々に楽しかったのら。