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THINK ABOUT SOMETHING.

写真のシーム、映画のシーム

物事は何かしら多義性を持っている。それを本義に集約するのが連続性や全体性の役割であり、この統合の中で個々の物事は肯定も否定もされ、最高の選択というのはそれを俯瞰できる者にしかできない仕組みになっている。


例えば眉間にしわを寄せている人が居たとして、他人がそれを「単体」で見た場合、一般論に還元して「怒ってる」と解釈するだろう。でも仮にこの人が眠気覚ましに気合を入れてるのだとした場合、それは物事の多義性の正解パターンではないということになる。


では何によって本義が立ち現れるのかと言うと、深夜まで残業している経緯、即ち連続性とか、夜更けを物語る時計、即ち全体性とか、そういう総体の中で個体の本義が立ち現れる訳で、個体それ自体は一般論の対置として存在するだけなのだ。


そういう意味では写真はすごく詐欺の要素が強い文化だな、と思う。極端に言えば明日の我が身を考えている思索的な顔が、革命のシンボルになることだってあり得るからだ。それは本義が「気合入れ」なのに「怒ってる」として世間に知らしめるようなもので、言わば「連続性や全体性を隠している」訳だ。


映画の場合、多義性が定期的に本義に確定されるのに対し、写真の場合、前後関係がないと構図の迫力とかで意味を騙されてしまう。そういう意味で映画の方が文化的に強いのかと言うと、そう簡単に言い切れる訳でもなく、何故なら人は本義だけで生きられるほど強くはないからだ。


以前つぶやいたように、僕はカメラの瞬間最大値ないしは最低値を切り取るやり方には、すごく価値を感じているし、定期的に本義を確定する行為だけで構成する人生というのは、常人にはほとんど真似できないだろう。僕にしたってそうだし、何かしら誤謬を孕むというか、誤謬を求めざるを得ない。


あらゆる物事の本義を突き詰めると、まあ精神病になるわな。一瞬一瞬の自己欺瞞を全て正すなんてことは誰にもできないし、本来の本義ではない「偽の本義」を立てて人はその日暮らしする。言わば本来の本義の周辺にある都合の良いものを、全面に押し出したり、汲み取ったりする訳だ。


もちろん精神病を理由に手放しで欺瞞するのも問題だが、こういうカメラ的な作用が人に希望を燈すなら、それは「カメラ的な正義」と言って構わないと思う。欺瞞の継ぎ接ぎが度を過ぎてもいけないけど、自然推移的な連続化なら、実は全然OKなのだ。それがテクニック化すると詐欺師になるけどね。


逆に映画は写真とは違い、全体性の中で個体の本性を炙り出そうとする。一個一個の現実の積み重ねとして、最終的なカタルシスを煽ろうとする。そこにはすごく本質的な何かがあると思うんだけど、それは多分、自己尊重の原則ということなんじゃないのかな。


要するに、自分の人生において本義の積み重ねができないのに、他人の人生の本義の方はしっかり読み取るという、都合の良いエゴイズムがあるということ。これは何か事件がある度にそれを批判しておきながら、自分もその要素を孕んでいることに気付かない野次馬にすごく似ている。


結論。写真の継ぎ接ぎ、言わば漫画レベルのシームから、映画レベルのシームを目指すのが物事の多義性に対する本来の立ち回りであり、最終的な理想としてはシームレスを目指すことだけど、それはまあ、無理だろな。でもそこにこそ羽生的な究極の一手が宿るんだろうな、とは思うよ。