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THINK ABOUT SOMETHING.

知覚の無意識的なメカニズム

今日街中でおかきを嬉しそうに持ち帰ってる初老の人を見かけた。そこで変な違和感を感じたので、味覚というものについて少し考えてみた。


別にこの人を悪く言う訳じゃないんだけど、比較的若い世代の子がルンルン気分でおかきを持ち帰る絵は、あんまり思い浮かばないし、その若い子がルンルン気分で例えばスイーツを持ち帰ってる時、この初老の人は違和感を感じる筈。


おかきも当然おいしいし、スイーツも当然おいしいんだけど、食にあんまり興味のない自分視点で言えば、どちらもルンルン気分で持ち帰るものではない。でもそこには確実に何らかの世代的な隔たりがあって、極端に言えば旧世代の味覚と新世代の味覚という対比が存在している。


こんな表現の仕方は聞いたことないけど、音楽にも旧世代の聴覚、新世代の聴覚というものがある。もう少し分かりやすく言えば80年代の音楽が好きとか、ゼロ年代の音楽が好きとか、そういうことだ。触覚と嗅覚はちょっと分かりにくいけど、視覚に関してもこれと同様の表現が使えるだろう。


そういう僕は演歌に特別な思い入れはないけど、親は嬉々としてそれを聞くし、逆にその親も洋楽に特別な思い入れはないけど、僕は嬉々としてそれを聞く訳だ。昔つぶやいたように同じインプットであれば五感情報そのものはほぼ変わらないけど、何故こうも隔たりができるのか。


それは各感覚と知覚との中間項として、『無意識的な意味付け』というメカニズムが働くからだと思う。例えば梅干は本質的に美味いものではないけど、休憩時間に食べる日の丸弁当が労働からの解放を意味付けし、その脇にある梅干以上の惣菜よりも、確実に毎回ある梅干の方を美味いと錯覚するようなもの。


そういう意味付けというか条件付けというか、無意識的なメカニズムは世代によって当然変わる。だから同じ聴覚を持っていても演歌が好きな人には演歌が好きなりのメカニズムが働いてるし、好きじゃない人はそのメカニズムが欠けていて、五感情報は同じなのに分岐する理由はそれが大きい。


厳密には他にも偏見とか(腰を据えた意味での)食わず嫌いとか、様々な要因が働いてると思う。でも基本的には国ごと、世代ごと、人間ごとに独自のメカニズムが働いてるというのが大きいし、それを超えるというのもおとぎ話みたいだけど、超えることが少しでもできれば『普遍的』と呼ばれるのだと思う。


だから無意識的なメカニズムを抜きに好きになれる演歌は多分、探せばあるし、逆に親が好む洋楽も、多分ある。そういう普遍的なものが文化の芯として中心的役割を持つようになれたら、その文化は幸せだろうなと僕は思う。