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THINK ABOUT SOMETHING.

ゲームの前提

ゲームについて思ったのだけど、最近のゲーム製作はその初動で知らず知らずの内に『前提』を置いているのではないか。ある意味では当然の行為だけど、誰が右アナログスティックをカメラの視点切り替えと決め付けたのか。誰がZ注目のような対象注目を踏襲しなきゃならんと言ったのか。

 

FPSに顕著なことだけど、ゲームルールの基本的な前提を長年いじらず、固定化している。これはユーザーがゲーム体験に即座に入り込めるという有意義さはあるけど、ゲーム内容そのものの進化を殺すのではないか。映像とか音楽じゃなく、システムから来るブランクページがもう開かれないのではないか。

 

何でこんなどうでもいいことをつぶやいてるかと言うと、ゲームの黎明期に何故あれだけゲームにハマれたのだろうということを考えたからだ。あの頃は前提も何もあったもんじゃない時代だったから、全てが全てブランクページで、それはクリエイターの側だけでなく、ユーザーの側もそうだったのだ。

 

だからAボタンでジャンプするマリオに驚いたし、Bボタン押しっぱで走るマリオに時めいた。これはAが何を意味するかもBが何を意味するかも自分の中で全く定義されていなかったから当然と言えば当然で、しかしこれがゲームプレイの円滑化の為に共有的に前提化されていくと、驚きがなくなるのも当然。

 

もちろんこういう諸々の前提は試行錯誤の末に築かれていく必然的なものだから、そこを無理に翻す必然性もまたないのだけど、しかし前提の共有数が増えてくるとゲーム体験が見え透いてくるのも事実。前提を置くってことは外さないようにするってことだけど、それ自体が外してしまってるっていうね。

 

僕のゲーム体験はFCのマリオからだけど、そこからSFCまでは前提となる部分がいい意味で『曖昧』だったんだよね。最近のFPSみたいに右へ習えではなく、ある程度の重複はあってもあちこちで違う独自の定義を与えてたように思う。もちろん2D時代という時代性も加味されるべきだとは思うけど。

 

そして3D時代になり、アクションの初プレイはまた64のマリオで、これも興奮しまくった。FC~SFCまでに築いていった前提が一旦ゼロからやり直しになったから、初代マリオと同じ興奮が蘇ったのだ。今みたいにカメラを動かすことの当たり前さもなかったし、ただそれだけでも心が踊ったものだ。

 

ゼルダのZ注目(厳密には起源を遡れるそうだが)にしたってそこから生じる体験の新規性があったし、これは前提の低いところ――極端に言えば何もないところ――で生じさせた方が感動も間違いなく大きくなる。前提に次ぐ前提の上で新規性を開拓しても、ほとんど見え透いてしまっている訳だ。

 

前提数が多いということは、その上で組まれるゲーム性も制限され、発想が似通ってくるということだ。自由度がなくなり、その上で構成されたゲーム性はプレイヤーにも容易に読まれる訳だ。それが64の時代は本当に読めなかったし、FC~SFCという2D黄金期のRebootがそこにはあった。

 

FC~SFCって完成して終わっていった(2Dの)ゲーム史というか、ベルセルクの蝕で連載終了みたいな『前提が確定するかしないかで終わる』という理想を体現していた。それが3DでRebootされ、しかし今回は蝕を通過し、グダグダの連載になってしまってるのが現状のように思う。

 

だからPS2辺りがどこまで行っても僕のゲームの潮時で、今はそこに到るまでのゲーム資産の前提――言い換えればこうしておけば大体外さない――を数多くのゲームが踏襲している。でもそれは逆に読むといい意味でも外さないということだから、何の驚きも起こらない。見渡せば佳作ばかりの時代なのだ。

 

FC~SFC時代のようなワクワクが今ない理由は、結局『前提のないところから始める』という要素が今のゲームに欠けているからだし、ゲーマーの夢が終わる=あらゆる前提が完成されてしまう=何もかもにデジャヴを感じてしまうということなのかもしれない。

 

前提が完成されていき、ゲームが洗練されていき、良作ばかりが日常の時代が夢の終わりだとは夢にも思わなかったけど、ハードウェアレベルではもう同じようなスペックにしかならなくなりつつあるし、ソフトウェアレベルで大神みたいなゲームがもっと出ればいい。あれにはマリオみたいな感動があった。

 

そう考えるとゲームへの夢が醒めてるのって、ハードスペック云々じゃないかもしれない。ハードスペックが向上することで夢が具現化されていき、そのことで夢が枯渇していくということかと最初は思ったが、というかそれもあるのだが、スペックそのものはゲームの自由度を上げる筈なのだ。

 

要はソフトウェアに魅力がなくなってるんだろうな。FC~SFCの時代ってまだまだ手探りだったから、同じところにゲーム性が集中しなかったし、それがクソゲーに振れることも、超傑作に振り切れることもあった。あのドキドキ感が今はもう全くないし、全体として安全牌志向。

 

要は終わりが始まり、始まりを繰り返さなくなったのだ。トゥーンレンダリングとかの場合は変わってくるけど、例えばフォトリアルを目指した場合、これは『実写かCGか判別不能なレベル』という終着点があり、それが即ち『完成を志向する』ということだ。そこを目指した時点で『終わっていく』訳だ。

 

これはグラフィックに限った話だけど、ゲームデザインでもそれはある。FPS全般もそうだし、シリーズタイトルもそうだけど、ゲームの完成に向かって伸び代がなくなっていく=終わっていく現象。でも昔は始まりを繰り返すというか、ゼロから全定義するゲームが溢れていた訳だ。

 

どのゲームもコントローラのマッピングがフリーで、カオスで、エキサイティングだった時代。完成を志向するのが0~100までの100付近での動きなら、独創するという行為は0付近での動きであり、それが終わったらまたクラッシュ&ビルドを繰り返していた時代。0から何度でも蘇る訳だ。

 

懐古厨かもしれないけど、そういう時代が黄金時代だったように思う。毎回0付近からだったから斬新だったし、驚きがあったけど、今は100付近での動きばかりだから、デジャヴしか感じられないのだ。ある意味ではポップアートだったゲームが、ポップカルチャーに変わってしまったんだよな。

 

終わりに向かっていくゲームデザインと、始まりを繰り返すゲームデザイン。厳密にはその両方が素晴らしいんだけど、今は前者ばかりが溢れている印象で、その比重が偏っているのではないか。僕のゲーム史で一番楽しかったSFC時代は、丁度この後者が前者に橋渡しする絶好のタイミングだったんだよね。

 

今の3Dゲームはもう橋渡しがとっくに完了していて、冒険がほとんどない。だから新規ユーザー以外、端的に言えばオールドゲーマーはゲームに驚く要素がほとんどない。ゲームが変わってしまったのかゲーマーが変わってしまったのかは分からないけど、今はそういう時代なのだ。