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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

友達の議論

先日友人Aと友人Bが「人間の汚さ」について議論した。Aは一般論的なそれを主張するのだけど、Bは全然違うことを言い出して結構面白かった。


Aは「金を貸して逃げてしまう奴は汚い」と初めに言った。それを聞いたBは「Aは知らんと思うけど、俺は少し前XとYに金貸した。付き合いの深さからして返ってこんのは分かってたけど、俺はこいつらのこと汚いとは全く思わん」と切り出す。


そして「俺が汚いと思うのは金貸して逃げる奴よりも、逃げた奴と偶々街中で会って、そいつが何かに切羽詰ってるのに一切助けようとしない、金貸してる方やったりすんねん。むしろそういう所にこそ汚さというのは滲み出る筈や。逃げるのは汚さの本質じゃない」と。


話は飛ぶがこの議論の少し前に自分はAと二人であるうどん屋に入った。そこでAは店員の低姿勢な接客を見て、「俺この店気に入った」と言った。普通に考えると何もおかしな所はない自然な会話だが、自分は全然そうは思わなかった。


これは最近個人的によく考えている「小銭を稼ぐような善」の話にも繋がるのだが、低姿勢な態度というのは媚びた態度の裏表を言うのであり、ハッキリ言ってしまえば「やろうと思えば誰でも出来る初歩的な善」に過ぎない訳だ。


こういう善を積み立てる人間というのは土壇場で自分の態度が転覆することを薄々承知しているのであり、自分は人間としての覚悟を持たないからいざという時は善と悪が引っ繰り返る、だからそこに至るまでに積み立てた善の総和で帳消しにしてください、という魂胆が根底にある訳。


これに対して友人Bの態度というのは普段ほとんど小銭稼ぎをしない代わりに、土壇場で決して揺るがない覚悟を持っていて要は腹が据わっているのだが、そこに至るまでは何の善も積み立てないので、プラスマイナスではこのうどん屋の店員と何も変わらなかったりする。


でも数値的な部分が物事の全てを決める訳ではないから、この両者のどちらと友達になりたいかと言ったら普通は大抵友人Bを選ぶと思うし、何故なら低姿勢なうどん屋の店員のような善の稼ぎ方を「偽善」と呼ぶからである。


つまり僕は何が言いたいかというと、Aは友人の中では一番貯金があり、そこに至るまでは蟻のような努力をしてきた人間だ。そこには色んな心理的背景があると思っていたが、Aがこのうどん屋の店員を好んだ瞬間、僕は彼を人間的に信用することができなくなってしまったのだ。


つまり貯金という行為は貧すれば鈍するを避ける為の腹黒い戦略に過ぎなかったということで、貧した時に滲み出るBが言う所の「瀬戸際での汚さ」を自分で熟知しているからこそ彼は金を溜めるし、また金を貸さないのだ。そういう小銭稼ぎを、彼はしちゃうのだ。


だから上の議論が巻き起こった時、もはやAはうどん屋の店員にしか見えなかったし、もはやBは聖人君子にしか見えなかったのだ(笑)。ここでつぶやくだけなら笑い事だけど、友達を選ぶというのはこういうことだよ。幼馴染でも切るべき時は切るべきだな、と素直に思った。