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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

神・地獄極楽・輪廻転生の不在証明

定義
神は全知全能である

 

定義
地獄極楽とは死後受肉に拠って呼び出される世界である

 

定義
輪廻転生とは同じ光の再臨(世界へのデジャヴ)である

 

公理一
光は諸々の外因に拠って発生し、減衰し、それ自体で再生能力を持たない

 

公理二
全ての複製技術は数学的記述で行われる

 

定理一
黒に属する内は精神は一切の感覚を持たず、精神はそれを超える光に宿る

 

証明一
夢とは黒を超えない閾値未満の発光現象であり、受肉とは黒を超える閾値以上の発光現象である。例えば睡眠と覚醒は天地創造の比喩であり、その比喩で考えてみると、睡眠の間は世界は黒であり、滅びているが、夢が何処からともなく現れて、閾値未満の自我が朧に立ち上がり、覚醒で以って完全に立ち上がり、黒を圧倒する。即ち閾値を超えた光である。これを自我論的に考えてみると、全ての人間の自我は零歳から始まるのではなく、精々二、三歳から始まるものであり、それまでは何の意識も記憶も存在しないが、この期間の以前が黒に、只中が夢に、以降が自我の覚醒即ち光に相当する。またこれを宇宙論的に考えてみると、宇宙年齢は138億年とされているが、厳密にはビッグバン以前の時間も含めなければならず、それが黒であり、ビッグバンに到るまでの兆しが夢であり、以降が世界の受肉即ち光に相当する。仮に黒を超える光に到らなければ世界は只々黒のままであり、あるいは只々夢に終わるのみであり、一切の感覚を持つことなく過ぎ去る故、誕生する為には夢で終わらない――黒を圧倒する――閾値以上の光が求められており、生きとし生けるものは全てその光を有さざるを得ないのである

 

定理二
数学は現実の近似にはなり得ても、現実そのものを記述することはできない

 

証明二
1+1=2は自明だが、これは本来前半の1と後半の1が等価物である前提が必要である。例えばリンゴが2つ存在したとしても、これは便宜的に2つと数えているだけで、厳密には異なるリンゴが1つずつあるのみであり、即ち1という整数は存在しても、各々の1が別々の1である限り、2以降の整数は本来カウントすることができず、等価物を前提としなければならない物量的数学に現実そのものを記述する力はない。また数学は無限小数を用いた所で力の無段階性を表現することはできず、例えば0.3141999...という無限小数と0.3142000...という無限小数があるとして、この小数点第四位の1と2を跨ぐ時に無段階の表現が不可能になり、何故なら0.3141999...と0.3142000...の中間値である有限小数0.3142を挟まざるを得ない時点で無段階が途切れてしまうからである。如何なる無限小数の如何なる位も繰り上がる際には有限小数を挟まざるを得ず、仮に有限小数を無視して0.3142000...に飛べば更に階段の段差が高くなるだけであり、動的な無限aと無限cを繋ぐ架け橋に静的な定数b(整数ないしは有限小数)を挟む時点で力学的数学はアナログ的表現――世界の実態的記述――の近似以上にはなり得ない

 

定理三
世界は不確定なもので構成されている(全ての数学は無限を隠している)

 

証明三
光速はプランク時間プランク長を移動するが、光速未満の速度で移動する距離をプランク時間まで分解した場合、尺度の最小単位であるプランク長を下回る移動量が観測されなければならず、仮にゼロとプランク長の中間値を取れないのであれば世界には静止と光速の二値しか存在しないことになり、そこから反証的に空間は無限の分解能を持っていることが導かれ、規定可能なものが概念として、規定不可能なものが実態としてあるのみである。もう少し厳密に定義するならば、速度が無限の分解能を持っていなくても、角度が無限に細分化できる時点で特定軸の移動量は無限に細分化できるし、その結果速度(あるいは力)の無限の分解能も対応的に保障されざるを得ず、これに拠りあらゆる定数的記述――静的状態の復元可能性――は否定され、近似を限界とした数学の断定不可能性と森羅万象の一回性は紐付けられる。即ち世界が定数的に構成されていれば森羅万象は復元され得るが、証明二に準じた数学的に切り捨てられた端数が存在する限り、見掛けの初期値を揃えられたとしても森羅万象が復元されることはなく、その無限の端数はバタフライエフェクトの如く無限の未来を呈すことになる

 

定理四
あらゆるものの再現は総じて不可能である

 

証明四
宇宙のサイズが一定であるならば、公理二を前提とした証明二と証明三の帰結に拠り、自然発生的な意味での永劫回帰は起こり得るが、宇宙は膨張する。故に究極の複製技術が存在した所で、これが固定的な方法の場合、その一回目と二回目では初期値の違いから極めて微視的な誤差が生じ、零回目即ちオリジナルとの間でも当然そうならざるを得ず、これはバタフライエフェクトの考え方(万物は万物を動かす)からも明らかである。また流動的な方法の場合でも、公理二を前提とした証明二と証明三の帰結に拠り、森羅万象の一回性――小にも大にも無限の性質――は再現不可能であり、無限には固有性があり、記述不可能性――言い換えれば永遠記述――がそれを物語る

 

結論
証明一に拠り、我々は光として存在するが、公理一に拠り、それは最大から最小へ、即ち零へ減衰し、そこから再生する能力を持たない。これだけでは諸々の外因に拠ってもう一度再現される可能性は残っているが、それも証明四に拠り無効であり、クローンとデジャヴは似て非なるものであり、消滅した光は二度と帰って来ず、永遠に黒に帰結せざるを得ない。故に輪廻転生は存在せず、死後の世界へのデジャヴ(二回目感を伴う再臨)も否定され、結果地獄極楽も存在せず、それを実現できない神もまた全知全能ではなく、存在しない