梅干万能論
昨日の話の続きだが、局所的な和食の代表例は「梅干」だ。これは本質的にそれ程美味いものではないけれど、日本人に生まれた時点で弁当などで頻繁にお目にする訳だ。
そうやって繰り返し繰り返し口に含んでいる内に土着的な関連付けが起きる。つまり空腹のどん底でようやく口に入れた梅干が絶妙の味をしたり、あるいは日の丸弁当が労働からの解禁の象徴として映りだしたりして、そのカメラ的な最大値が原体験として精神に刻まれていく訳だ。
平たく言えば「住めば都」で、一たび原体験を刻めば口にする度に最大値のフラッシュバックが無意識的に起き、新参には到底分からない濃厚な物語(様式美)の中で精神が躍動し始めるのである。
梅干は日本人に対して大よそ万能だ。異性においてもそういう土着的様式美が万国万別に備わっている筈で、そこに自身を統合(デフォルメ)していけば性のチャンスなんかいくらでも生まれる。
万国的なエロスは自分自身を曇らせてしまうが、母国的なエロスは自分自身を悟らせる。フェティシズムがなければストーリーも生まれないし、だから僕は攻撃的に僻地(深淵)に向かっていくのだ。