精神は未来に向かって完成されていく
以前にもつぶやいたと思うが、僕は割と楽観的に精神の上積み方式を信じている。昔はできなかったことが今ならできるし、この流れは不可逆だから、今現在この瞬間が、『人生の最先端』にして『自分の最高峰』ということになる。
もちろん上積みが崩れる年齢もあるんだけど、そのボーダーラインは肉体よりはよっぽど後に来る。またそのボーダーラインの手前に居ても、昔ならできたことが今はできないというパターンもあることはある。一番分かりやすいのが子供の頃にはあり得なかった緊張が大人になって来る、とかだ。
でも緊張は何から来るのか、と考えた時、それはあらゆる可能性の想像という「情報量」から来る。子供の頃は単にそれを素通りしていたに過ぎないし、言い換えれば情報量が少なく、結果複雑なことは何もできない。そう考えると精神の上積み方式と情報量は切り離せない関係なのかもしれない。
検出できる情報量が増えると悪いことも当然あるけど、それ以上にプラスになることの方が多く、例えば緊張は失敗を想定した結果相手への非礼を飲み込む気遣いに繋がるし、例えば相手を悦ばせたい気持ちがオーラルセックスを可能にするし、即ち情報量というのは行動量に通じる訳だ。
子供の頃は良くも悪くも自分のことしか考えないし、複雑な行動はほぼ不可能だ。言い換えれば我見が狭く、精神的な視力が弱く、周りに甘やかされた状態を当然のように錯覚する。だから甘やかされ続けた子供はいつまで経っても自分本位だし、本来なら少しずつ手解きを解除する必要がある訳だ。
例えば補助輪がある自転車とない自転車と、それぞれ乗る時の精神的情報量は全く変わってくる。前者を当然と思っている間は情報量が少なく、後者に移行できないし、この情報量増加の流れは不可逆だから、そう考えると自立・独立に向かって精神(情報量)は完成されていく、と見ることもできるだろう。
また昔は楽しめなかった小説が今なら楽しめる、というのも情報量から来ていると思う。そして増量された情報量はその人間の傾向というか、『癖』を表しているので、後から好きになるものほどより根深いものになり、自分と切り離せない関係になる。
そうやって紐付けられた切り離せない関係者達が、自我を見据えた自分最高の行動を導く。切り離せる仮初のものばかりで構成しても、それはお菓子でできた家みたいなもので嘘にしかならないし、不可逆な情報の増分――言い換えれば精神の最先端――に最高峰の自分があり、最高峰の行動があるのだと思う。