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THINK ABOUT SOMETHING.

『本来の違和感』を大切に

夢の中の話だけど、毎回テーマを出してツイッター上でコピーを競い、上位のコピーを年間別に集めたものを書籍化し、その収益を還元する、という収益モデルを思いついたのだけど、起きた時の一言は「できる訳ないだろ」だった。

 

別に収益モデルに発展させなくてもいいんだけど、仮にこのプランを自分がやった場合、あまりにも無名過ぎるから誰の目にも届かない、というところから収益モデルを考えた(夢の中で)。でもこんな絵にかいた餅が通用する訳がないし、そこで夢の中のリアリティーの危うさに気付いた。

 

僕はこの夢を見ていた時、起きた時の一言とは裏腹にもの凄く真剣に考えていたし、リアリティーも感じていた。何の疑問も沸かずにトントン拍子に話が進んで、「これはいける」などと思っていた訳だ。現実的に考えるシニカルな視線が欠けていて、構想それ自体のポジティブな面しか見えなかったのだ。

 

よく漫画的リアリティーとか小説的リアリティーとか言われるけど、ある意味それらのリアリティーと互換性があるんじゃないかと思った。一般的には『それ独特のリアリティー』と解釈されてる筈で、その独特の自然さ=違和感のなさは逆に読めば『本来の違和感を隠している』ということになる。

 

それは要するに作品内の連続性や整合性から来る一種のリズム(世界観的辻褄)ということなんだけど、それはその世界観の中だけの辻褄だから、現実に照らし合わせるまで違和感は隠れたままだ。リズムが『表現』で終わればいいけど、小説が独特のリズムでとんでもない『結論』を出したら、それは危険だ。

 

資本論の毒にやられた人って、他にも要因はあるだろうけどもの凄く単純化すればこういうことだと思う。その活字のリズムに乗って、その活字の中だけで心地よく辻褄を完了させる。まるで夢を見ているようにだ。但しこの独特の夢心地(リズムの毒)は、現実世界の中でも当然起きてくると思う。

 

ビスマルクが『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という言葉を残しているが、自分の経験の管轄外から得る結論というのは、上述した小説の結論のように危ういものだ。これは自分でやる『空想』や『仮説』でも同じで、純粋なそれ自体の洞察というのはリズムに陥りやすいと僕は思う。

 

そのリズムを解毒するのが経験則かどうかは分からないけど、リズミカルな思考や文章というのは、現実の参照がない限りどこまで行っても浮ついたものだと思うのだ。『童貞や処女の方が強烈な官能小説を書く』という説があるけど、今日のつぶやきのようなことを考えると僕はそうは思わないのだ。

 

まあ本来の違和感を突きつけるものが常に経験則だとは思わないけど、思考の限界は間違いなくある。思考それ自体で完了した概念は、現実に照らし合わせた途端想定外の微視的なものであっという間に軌道を外すし、むしろその微視的なところに大問題があったりする訳で、つまり空想はいつだって脆いのだ。