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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

ダダもシュールも一過性の必然

僕はヨーロッパに旅行に出かけて初めてダリを知り、ブルトンを知り、シュルレアリスムを知ったぐらい「芸術素人」な人間だけど、日本に帰ってきて彼等を調べていく内にシュルレアリスムに幻滅していった経緯がある。


僕にダダとシュルレアリスムを明確に区分できる力は持ち合わせていないが、一つだけ分かるのはあれはどちらとも「許されざるもの無き無神論者の文化圏」だろう。先に書いた北斗の拳の話じゃないが、そんなのちっとも「そそられない」のだ。


もちろん様式や規律が芸術を弱体化させるという視点は十分に理解できる。でも「形の中で何かを守り抜く」のが芸術の真価であり、またシンプルイズベストという言葉の真意だと思うんだ。


許されざるものが無くなるということは全てが許されるということだけど、これは「これもダメそれもダメ」または「これはそうそれはそう」という不文律が「初めから死んでる」状態を意味するので、自由はあっても破壊と結び付かないから何の醍醐味も生まれない訳。


何かを守り抜いているのに破壊するというのは一見矛盾に思えるが、これは「破壊する自由(形革命)」を成立させる為に「形」を尊重するということで、形の外から形革命をやろうとしても思考放棄に終わるだけだから、形の中から輪廻しましょうという訳だ。


不文律(形)がなければ芸術はカルト(垂れ流し)になり、不文律(形)があれば芸術はシンプルイズベストを理想する。不文律(形)というのはリアルタイムの理想を意味するが、これを前時代的幻想に追い込むのが永遠の人間原理(芸術家の最大の動機)だからだ。


そういう前線で展開された修羅場の芸術を目撃すると、生ぬるいシュルレアリスムとか正直どうでもよくなる。ちょっと大衆芸術寄りの発想かもしれないが、市民権を持った芸術はみな形を尊重しているのだ。