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THINK ABOUT SOMETHING.

僕達にはロールプレイの権利がある

結構前まで感情というのは不可抗力のものだと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい。


「味覚は変わる」という言葉があるけど、正確に言うと味覚自体は間違いなく変わらない。昔嫌いだったものが好きになったとしても、味の感覚そのものは絶対変わっていない。


じゃあ何が変わったのかと言うと「変更不可能なものへの態度」であって、文学的な言い方をすれば「受け手の組織化」の仕方が変わったということ。


味覚が味覚単体で終わる間は好き嫌いは激しくなるだろう。でも「統覚」に向けて能動的に接した場合、色んなものが食べれるようになる。


最初から好きになれない時点で酒も煙草も味覚的にはクソの部類だ。でもこれらには中毒的な意味もあるがそれ以前にロールプレイ的な意味もあるから、大人の味覚の持ち主は「美味い」と感じることができる訳で、これは「統覚」という言葉の一番分かりやすい例だろう。


最初から好きになれるお菓子やフルーツは子供の味覚の典型だ。こういうものに夢中になる子供というのは「味覚を垂れ流している」訳で、何の能動性も物語もそこにはなく、精神的に幼稚なまま時を消費していく。


だから僕は原則論として、ステレオタイプなセックスシンボルが嫌いなのだ。そこに群がる連中は性の第二次覚醒の機を失って、変態になれないまま終わっていく(その方がええやん……)。


結局僕は何が言いたいかと言うと、感覚や感情の占有率は確かに高い。しかし統覚への介入余地が全くない訳ではなく、そこでどういう物語を造るかでその人間の本質が現われる訳だ。


惰性で感覚感情を垂れ流す人間というのは良く言えば神話的で理想の領域であるけれど、悪く言えば「自分の物語がない」から生きてる価値がホニャララな訳。


「欲しがりません勝つまでは」じゃないけれど、滅びぬ理想は自分を極めてからようやく語れる領域であり、大人が「子供の理想を取り戻す」とか言い出すのは筋違い。滅びるべき所に帰っていってどうするんだと僕は思う。


惰性を理性で楽しむ。それが多分、僕が考える所の理想郷だ。