雨にも風にも勝るべし
雨にも負けず風にも負けず。あれは「負けない思想」というより「勝てない思想」の方が正しい。「勝つ思想」というのは対等を前提に組まれてなどいないからだ。
「雨にも負けず風にも負けず」というのはその対象に対する攻撃性が全くないし、精神的な「対等」を限界としているが、「雨にも勝り風にも勝り」というのはその対象に対する攻撃性が剥き出されていて、精神的な「超克」を想定している訳だ。
僕も当然「勝つ思想家」になりたいけど、内向感覚型の宿命として「負けない思想家」が限界という現実が在る。これは言い換えれば「能動か受動か」ということでもあるんだけど、本質は受動、能動は虚勢というのが僕の正体だ。
だからツイッターの僕は虚勢(自分以外)で、日常の僕は本質(自分自身)ということになるんだろうけど、この往復とて克己の例外ではなく、微視から巨視へと昇る螺旋として機能し得る訳だ。
自分以外というのは要するに、永遠の到達不可能性だろう。だから永遠に前進するし、永遠に宿命足り得る。しかしそれはオルガスムスと同時に性欲が急に醒めるような形で、一瞬の恍惚としてのみ自分自身と同化し得る訳だ。
そこで革めて本質(自分自身)に立ち戻る訳だけど、自分以外と同化した履歴が直ちに日常化することは在り得ない。但しそんな簡単に人間が前進することはないとしても、オルガスムスを繰り返している内に「創造のプレイボーイ」には成り得るだろう。
これは以前書いた「言葉の自然発現」と同様に、決して派手にではなく、燻し銀的に効いてくる。この微妙な自己変容を感知できるまでは誰でも派手に走り、例えばダリとかガリアーノがその最たる例だろう。彼等はそれが皮肉にも成功「してしまった」例なのだ。
だから僕は「雨にも負けず風にも負けず」と「雨にも勝り風にも勝り」の間を行ったり来たりしながら、決して黄金ではなく、銀色に輝いてみせるつもりだ。そしてそれが結果的に勝利になることを僕は信じるよ。