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THINK ABOUT SOMETHING.

マストアイテムの成立条件

中学生ぐらいでスニーカーに興味を持ち始めた時、一目見てカッコいいと思えたのは、コンバースのハイカット。逆にジャックパーセルとかはカッコいいと思えなかったけど、今はジャックパーセルの方が好きになっている。


これはアディダスのウルトラスターとかでもそうなんだけど、それを履く絶対数が増えると着こなしのサンプルも当然増えるし、その中で似合っている人のカッコ良さの最大値も当然高くなる。そして全体がそこを目指す共振が「履く人の実質」を形造る訳だ。


これは映画のサントラをシーンの回想とセットで聴くのと同じで、最大値を想定しながら履くと、元のスニーカーが平凡でも全然履く気になれる訳だ。ジャックパーセルとかウルトラスターが平凡だとは言わないけど、ベイプスタのような派手さはないし、単体でのアイコン性は低いと僕は思う。


でも単体でのアイコン性が高いということは、着てるんじゃなくて着せられてるように見えるということでもある。言い換えれば「スニーカー単体で完結しかねない」ということで、スニーカーの方に実質があり、履く側に実質がないというのは本末転倒だ。


カッコ良さの最大値に居る人が実質の極致だとは限らないけど、基本的にその可能性は高いし、そこを目指す形式の中に実質は宿るだろうと僕は思う。逆に言えば最大値を見誤った(単に好きな芸能人を想定するとか)形式の中には実質は宿らないし、実質というのは言わば「人となりの比喩」に他ならない。


例えばベルセルクのことを僕は「画力で騙される漫画」と思ってたけど、特定の描写に特筆するものがある場合、それは他の領域でも通用するというのが今の考え。要はある主題を描く時にそれを見事に描き切れる力があるのなら、人の心理を洞察する時も見事に洞察し切れるような類似構造があるということ。


だからファッション的な実質が伴っている人は、それ以外の領域でも実質が伴ってる可能性が高い。僕は特定の分野にだけ特筆していて他は総崩れ、という人を基本的に信用しないし、それは受け売りとか付け焼刃の知識で固めるからそうなるのであって、実質があれば他の領域に応用が利く筈なのだ。


少し脱線したけど、本当にカッコいいものというのは着る人の人となりを輝かせ、余計な主張がない。そういうファッションアイテムはマストアイテムとして歴史化されるし、それが上述した「実質を形造る共振」に他ならない。ベイプスタが廃れたのはその共振が全然なかったからかな、と今頃になって思う。


要するに、ジャックパーセルも、ウルトラスターも、iPadも、ポケモンも、みんな同じ構造だと思うのだ。フォーマット自体はそれほど豪華じゃないけど、それを如何に使いこなすかという形式がカルチャーになる訳だろう。これは自然発生的なスポーツみたいなもので、流行とはまた少し違う。


流行にはスポーツの要素、言わば競い合う為のフォーマットという側面はあまりない。単にそのフォーマットに乗っていればそれだけで同世代の波乗りに成功するというような、ピークから始まって瞬く間に消費されていくものが、流行に他ならない。


ほとんどの流行は一年未満で消費されて終わるけど、カルチャーは消費すればするほどピークに向かっていくという、全く反対の構造を持っている。言わば自然消滅が先に来るのが流行で、(競技性の)自然発生まで持ち応えるのがカルチャーで、ピークのあり方を消費者に委ねるのが本来のカルチャーなのだ。


そう考えると定番というのは、狙うものではない。競技性の自然発生を煽ろうとする意志が僅かでもあれば、いくら隠蔽してもそれは浮き彫りになる。そういうあざとさのないスト2みたいな文化は歴史に残っていくし、確信犯的な傑作というのは案外さっさと消費されるもの。


僕は消費者も生産者も同じ人間である以上、そこまで大差はないという考えだから、生産者の確信の部分(ピーク)は、消費者の想定内であることがほとんどだと思う。だからそういうのは差し出された飯を食うみたいに簡単に消費されるし、少なくともGTAにはならない。


こう書くと例外を指摘されそうだけど、その例外の作品の「確信の範囲」というのも、結構胡散臭い。「そこまで想定してなかっただろ」というか、実ピークと想定ピークに隔たりがあるというか。逆説的だけど、その隔たりの部分が大きければ大きいほどカルチャーになるんだから、創作は面白い。


創作者が操作できるカルチャーなんて偽物だ。それは芸術の限界を超えている。そういう意味では革命と芸術の間には何か本質的な溝があるし、革命家はそれを操作し得る訳だけど、革命家というのは「最大値の人」のことであって、これは絶対に狙えない「時の人」だと思う。


結局「(何らかの)天下を取ろう」と思ってなれる人なんて居ないし、天下を取った人は最初から天下を取れるだけの才能を備えていたに過ぎない。例えば松本人志は最初から笑いの天下を取れるキャラだったのであって、「なろう」と思ってなったキャラじゃない。


そういう意味ではピークは本来的に、確信できるものではない。言い換えれば必然的にではなく、あくまで偶然的にしかそこには到達できない。だから「すごい傑作を造っている」とか思う間は、まだまだ甘ったれだし、何か正体不明の不透明さを孕む方が、作品としては全然可能性があると僕は思う。


でもその正体不明の不透明さというのは、必然性を絞り切った先に生じるものだとも思う。全部を偶然性で構築しちゃったら子供の芸術と変わらないし、僕はそういうものには何の価値も感じない。要は可能性をいくら切り崩しても可能性が溢れるような金脈を必然性で征するのが、確信犯の理想じゃないかと。