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THINK ABOUT SOMETHING.

絶無のコイン

音楽を聴きながら寝てて一つ気付いた。寝てるということは当然目を瞑ってるし、視覚的な世界は全て消え去る訳だけど、スピーカーの位置から音楽は聞こえてくるので、聴覚的な世界は残っている訳だ。


このことで何を思ったかと言うと、自分の精神の範囲がどこまであるのか、ということだ。基本的に何か考え事をすると頭に意識が行くので、脳の辺りに精神は集約してそうなイメージがあるけど、目を瞑った一種の瞑想状態で、音の位置がその外側にある、という状況を考えるとそうとも言い切れない。


要するに「肉体の内側に精神の全容がある」というのが通説というか、一般的なイメージだと思うが、視覚や聴覚による肉体の外側の認識もひっくるめて、精神の範囲なんじゃないのか、と思ったのだ。ユング的に集合意識みたいなものを定義したい訳じゃないけど、半ばそうならざるを得ないと思ったのだ。


世界が無ければ我も無く、我だけならば世界では無い――僕は昔こう考えたけど、これは前半も後半も一つのコインの裏表で、それを『絶無(≠虚無)のコイン』と名付けることができる。世界が無ければ我も諸共に絶無だし、我だけならば世界も諸共に絶無に等しい訳だ。


これも昔に考えたことだけど、例えば完全暗室に一生を閉じ込められた人間は、永遠に黒色以外の想像ができない、即ち映像的な想像力が絶無だという考えを僕は持っている。これは絶無のコインに通じるものがあるし、主体と客体は安易に切り離せるものではない訳だ。


絶無のコインは裏を返せば客体は精神の一部であり、主体の絶無を滅ぼすものであることを示しており、客体があるからこそ僕達は映像的な想像も音楽的な想像もできる訳で、想像が一切死ねば我も無くなってしまう。だから世界・想像・精神は全て相即していて、この三位一体こそが自我の全容だと言える。


胎児の頃の記憶がないのは表象可能な客体――想像力の源泉――が存在しない、あるいは限りなくか弱いからだ。ほぼ無為なままに母親の胎内に居座って、ほぼ絶無的な存在――言い換えれば聖なる存在――として躍り続ける。何をも想像しないままに過ごすのだから、記憶など残る訳がないのだ。


そして出産と同時に想像力という魔力を手に入れ、全ての胎児は泣き喚く。後は聖なる存在――言い換えれば神的な存在――から人的な存在に穢れていくばかりで、カント的に言えば理性の限界に晒されながらも、しかしランボーの嫌った理性の囚徒へと落ち着いていく。


それを覚ったがゆえに胎児は泣くのか定かではないが、客体に晒される瞬間が一つの知覚の究極であることは疑いようがなく、肉体的な地獄も精神的な地獄も自我の中に湧き始め、偉大なる調和にはもう還れない。即ち無自我の時代は終焉を迎え、代わりに圧倒的な現実が宿り始める。


そこで僕達は何を為すべきか――現実を刮目し、現実を先導し、現実を書き換えること。偉大な精神は偉大な想像で偉大な世界を導くし、然る想像は世界を精神へと確実に表象させた所から生じる。精神の強度は表象の妥当性によって決まるし、洗練されたそれで構築された想像は、未来を幽かに写実する。


だから徹底的に世界を観察し、自分の世界観を妥当にする。言い換えれば自分の世界観と世界そのものとの誤差を極限まで抑え、一人の世界解釈者になる。借り物の定義を全て我が物の定義に書き換えていき、誰よりも写実的な世界像を見つけにいく。それが広義での芸術特区であり、想像力の神域なのである。