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THINK ABOUT SOMETHING.

『あるがままであれ』と『かくあるべし』

その尺度が全てではないだろうけど、『美』の一つの定義として『高度化されてるか否か』というのがあると思う。僕は自然主義的な性格も持ち合わせてるけど、最終的には理想的なものの方が美しいと思う。


極論的に言ってしまえば、デフォルトは全て美しくないところから始まり、アポカリプスに向かって絞られていくことで万物は美しくなるという、そういう尺度だ。僕は歴史の楽園への肉薄は不可逆だと思ってるから、楽園が最高美であるならばこの美の尺度は正当化される筈。


昨日の世界より今日の世界の方が美しく、今日の世界は歴史の最高美に当たる。この法則は宇宙的事故でも起こらない限り今後も続いていくし、それはドラゴンアッシュの『陽はまたのぼりくりかえす』ぐらいの安定性がある。太陽にしたってその法則は永遠ではないけど、半永久的とは言えるだろう。


自然体=収束する無制約に向けて、垂れ流し=純粋無制約を淘汰する。厳密には究極の秩序=誰もが夢見る楽園に肉薄するがごとに、失楽園的要素は自動的に彫刻(淘汰)されていく。その自動性は万人のあるがままと重ね合わされるまで、半永久的に終末へと続行されていく。


僕は『あるがままであれ』と『かくあるべし』については結構考えてきたけど、前者が精神の永久機関=半永久機関であるならば、後者は心身共に反作用が働く運動的なものである訳だけど、前者が終末的なものへと結び付くのが人間の理想で、しかし後者なしの純粋な前者だけではそれはあり得ない。


即ち子供のあるがままと大人のあるがままは、違う。ハッピーエンドを目指す作用は永久機関だが、バッドエンドの方角には反作用が働く原理があるとして、全ての大人が子供のあるがままを真似るとバッドエンドにしかならないから、そこには強烈な反作用が働く訳だ。


言わば夢見る楽園の精度を上げることが、大人のあるがまま――楽園からの肯定――に繋がる。それは楽園に奉ずるということではなく、世界の中に居場所を見つけるということ、彫刻されないということ。即ち『楽園』という演目の舞踏を演じるようなもので、最初はしんどくても、次第に楽しく戯れられる。


『かくあるべし』とはその『あるがまま』への調整者であり、歴史的終末と紐付けられた後者へ導く『使徒』なのだ。それはエロスを押し殺すように思えて、実はエロスを最高峰の快楽に帰結させるテクニカルなもので、人間の欲もそれを満たす術も高度化されていくところにその根拠がある。歴史の縮図だな。


ちなみに子供はその使徒を嫌うが、ランボーの嫌い方はもっと高度だ。子供は順接のリビドーとしてそれを嫌うが、ランボーは逆接のリビドーのそのまた逆接を唱えている訳で、それは子供帰り=順接に立ち返っているのではなく、対等な理論を繰り広げている訳で、ゆえに彼もまた美的なのだ。


歴史的終末の前提達は異論も極論も交えたところに形造られるし、それらを交えずにただ答だけがある状態なんていうのはあり得ない。そういう意味では歴史の芯――終末に紐付けられた必然性――に絡む者は多少の罪を抱えていても高度に免罪(美化)される訳だ。


即ち歴史を動かすということは楽園に到る神学論争に絡むということであり、そこから漏れた芸術を僕は『カルト(純粋堕落)』と呼ぶ。僕はカルトが嫌いだけど、寺山が好きなのはこの定義に当てはまらないから。田園に死すは美しいけど、鉄男は美しくないようなものだ。


歴史は時間と共に『楽園の術』を高度化させていくし、思想の領域もそれに対応する。そこに与する者達はタイトロープダンスを強いられているが、それは自然状態に反する理性的なものを抱えるから。その必要スキルはどんどん高度化されていき、同時に無意識の運動効率は上がり続けていく。


要するに『過去にはできなかった芸当』の最先端が、現在進行形の美を形造る。一年前にできなかったことよりも一ヶ月前のそれ、一ヶ月前にできなかったことよりも一日前のそれという感じで、この時間差は短ければ短いほど美しさを示すし、それ(時間差)は無意識の運動効率に反比例する関係にある。


だから『かくあるべし』を蔑視せず、聖なる演目への煽動だと思わなければならない。例えば初めて自転車に乗ってもあるがままではあれない=反作用を感じるけど、『かくあるべし』がそれを感じない領域を指し示す訳で、そういう『収束する無制約』への運動を僕達はもっと愛するべきなのだ。