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普遍的終末の更新

普遍的終末という言葉について少し補足を。これは『アトランダムな解釈が始まるボーダーライン』のことであり、それ以降は『普遍性の及ばない固有の領域』になる。このボーダーラインまでは普遍的に事実が確定されていて、その公理的なものを積み重ねる行為が歴史の一つの意義なのだ。


例えば僕は文芸論を書いたけど、芸術家の普遍的終末と芸術的成功者の普遍的終末は違う。前者はアトランダムに過ぎる為もの凄く浅くしか描けず、後者は目的論的に絞られている為かなり深くまで捉えられる。目的が詳細化されればされるほどその道筋は深く普遍化され、固有性の領域を底光りさせる訳だ。


芸術家の普遍的終末はもの凄く浅いが、かと言ってそれ以降の固有性が自由度を示している訳ではない。普遍性と固有性の比率は芸術家の方が上だけど、これは浅田彰の言う『ディシプリンのない自由』に過ぎない。逆に普遍性の比率を上げていった結果、幽かに底光りする固有性の方が逆説的に自由度は高い。


芸術家の場合の固有性は厳密な意味での固有性ではないかもしれない。それは『形がない自由』に過ぎないから、シュールやダダのように何の期待もできないし、もしそれが本当に自由になるのであれば、誰もが思い立ったその瞬間から芸術を開始できることになる。でも、現実はそうじゃない。


普遍的道筋を歩み切ったところに固有性が輝き、その光は目的を詳細化していくごとに深まっていく。人類普遍よりも芸術家普遍、芸術家普遍よりも芸術的成功者普遍という感じで、普遍性の深みは絶対数と反比例する関係にあり、これは楽園にしたって同じことなのだ。


極論的に言えば、一人の成功者しか居ない分野でその成功者を研究した場合、そこで確定された答がそのまま普遍化されるようなもので、深淵までの射程が全て1/1になる。これは以前つぶやいたMADONEの話にも通じるものがあり、これもまた一種の学術的オリンピックなのだ。


客観の及ばない主観の絶対領域としての、深淵。そのボーダーラインである1/1の最深部を更新する学術的オリンピックこそ自由への王道で、同時に歴史的終末の神学論争に絡む王道でもある訳だ。そこから漏れたものが全てカルトだとは思わないけど、順接のリビドーに退行する行為にはなりやすい筈。


普遍的終末の更新は歴史的終末の前提を形造る行為であり、それが自転であるならば、その未満の活動は総じて流転なのだ。アトランダムなものをコントロールする為にアトランダムなものを殺していく。そういう逆説がアートにはあると思います。


あるいは普遍的終末以降の固有性の発動範囲は等価なのかもしれないが、しかしそれは自由度の一定性を示している訳ではなく、普遍的終末が深ければ深いほど誰とも重複しなくなるという意味で、深淵で底光る固有性ほど自由度が高い、という定義も考えられるだろう。これはダダ的な自由とは全くの別物だ。


即ち固有性の発動範囲の一定性は、自由度ではなく行動の一定性を示していて、浅瀬の固有性は他者と同じような行動しか示さないが、深淵の固有性は行動自体は一定でも、少数派の一定ゆえにオリジナルに近い動きとして捉えられる。そう考えると真の自由とは『普遍的終末による日蝕』なのかもしれないな。


『あるがままであれ』だけでもいけないし、『かくあるべし』だけでもいけない。後者はおそらく分析心理学とも結び付くというか、普遍的終末を拡張する為にも紐付けるべきだけど、学者でも何でもない自分が今言えるのは、ダダ的自由を殺していく理想的な普遍的終末論を見極めるべし、ということなのだ。