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THINK ABOUT SOMETHING.

彼こそがギャングスタ

理論上万人に可能な最高位――過去の例で言えばその最たる象徴が三島であり、では例えばランボーはどうなのかと言うと、それは三島が殺したケースバイケースから生まれた異端ではなく、三島とは別のベクトルの普遍的終末及びその拡張終末の帰結として、彼があるのだ。


仮に三島の征服跡地=下位的領域にランボーの断片があったとしても、それは三島的な意味でのオリンピックにおいての妥協ではなく、そもそもからして無関係の行為であり、しかしランボー的な意味でのオリンピックにおいてはそれは勝利に繋がる行為である可能性がある訳だ。


即ち確定的なもの(かくあるべし)を積み重ねた体系の質×量×継続性が精神的腕力に繋がるのであって、この確定された断片を引っ張ってきてその全体を否定するようなことはできないから、三島の未満のところにランボーの断片があっても三島がそれを否定していることにはならない。


悪逆的な思想は質量が最初からかなり強烈で、しかしそれゆえに継続することは非常に困難だ。それは任侠でもギャングスタラップでも同じだが、それを貫き通せばそこに強烈なカリスマ(腕力)が生じる。肯定する気持ちは全くないが、タイソンもヒトラーもそうで、ランボーにしたってそうなのだ。


だから精神医学で言う『代償』という言葉が、ランボーにはもの凄く相応しい。『初動から高質量的』という意味で初心者の選びがちな茨の道を俯瞰的に選び、そこで悪逆の限りを詩的に繰り返す。そういう意味では一見三島の方が上位に見えても、実は匹敵するぐらいの精神的腕力を隠し持っているのだ。


美徳を貫くのも悪徳を貫くのも並大抵のことではないし、それらはそれぞれにオリンピックになり得るだろう。即ち体系の質×量が自戒強度であり、それに継続性を掛けたものが精神的腕力であり、何かしらの普遍的終末に到達する為にはその腕力を誰よりも強烈に高める必要があるのだ。


この質量の理想は先人によって理論的に十分に描かれているが、その継続性及び密度は自由裁量に委ねられている。しかしそれを可及的高密度で展開しなければ普遍的終末には他者が辿り着いてしまう……ということではなく、ボディービルにしろアートビルにしろ目的別の理論値は大体決まっているだろう。


即ち答が万人に開かれているからこそ、必ずしも最速にする必要はない訳だ。それは質量の部分をハックしない限り、加圧トレーニングのような手法を発明しない限り、決して楽にはならないが、僕のエロスに関する考察がいつかそれを炙り出すことを祈って、これからも哲学は続けていくよ。


……というようなことを以下の動画を観ながら思いました。
http://www.youtube.com/watch?v=WDM4Xdnb9w4