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THINK ABOUT SOMETHING.

フォーマリズムとアンフォルメル

オリンピックというのは完全性に近づく行為だが、完全性そのものには全く面白みがない。例えば完全性はコンピュータで実行可能だが、理想のフォームをミニマルに寸分の狂いなく繰り返し、道の完全な中央を走り続ける100m走のCGがあっても、何が面白いのか。

 

つまり不可能なものを可能たらしめようと足掻く姿が『輝き』であり、可能なものを可能なままに享受する一切はその輝きの一切に勝てない。例えば貞操観念の高さと性的興奮の高さは比例するし、自らをオリンピックのように競技化することを僕は『不可能化』と呼ぶ。

 

オリンピックとその他一切の大会の勝利の違いというのは、完全性を目指すフォーマリズムの有無の違いで、例えば貞操観念の低い女性は完全性を目指さなくても性的対象になり得る。内輪だけで盛り上がる草野球みたいなもので、しかしその盛り上がりはフォーマリズムから来る盛り上がりには勝てない。

 

こんなものは理想論に過ぎないが、恋愛関係がやがて冷え切る相手とは結ばれない――そういうことがあるとすれば、それは不可能化する者同士の結びつきでしかあり得ない。つまりフォルムが必要で、自らを不可能化することとフォルムの志向は相即するし、でなければ自らの不可能化など成立する訳がない。

 

不可能化とその他一切を分かつものがフォーマリズムなら、その他一切を乱暴にアンフォルメルと分類することもできる。現実的にはアンフォルメルな恋愛の方が安心感があって僕は好きだけど、その安心感はあるいは仮初のものかもしれない。永遠があるとすればそれは三島が言うように、やはりフォルムだ。

 

不可能と可能の瀬戸際のところで邁進している人間が、その人間同士の結びつきが世界すべての上澄みの部分であり、楽園であるならば、やはりほんとうの楽園というのはそんなに安易なものじゃない。可能の中で遊ぶ可能性は、不可能に進む可能性よりか弱く、だから僕は最終的にダダが嫌い(になりたい)。

 

不可能の可能への反転、その刹那の甘い蜜、そして日常。つまりメロディアスな起点、ピーク、終点のこれらミニマルは、フォルムを志向するがゆえにほんとうのミニマルではない。つまりコンピュータライクではなく、揺らぎを前提としたIambic 9 Poetry的な不可能側の、人間側のミニマル。

 

言い換えれば同じフォームを走る分だけ繰り返すようなミニマルではない。Iambic 9 Poetryは同じような繰り返しに見えて、細かく見ればすべて細部が違っている。アンフォルメルサイドの人達はここが極めて似通ってくるというか、細部の徹底がない。つまりダダ漏れ、垂れ流しなのだ。

 

でもコンピュータがアンフォルメルという視点はなかなか面白いな。可能なことを可能なままにやっているだけ、という点ではその通りだし、それは絶対に有意閾値を超えることがない。だから僕は今はレイ・カーツワイルの思想にとても懐疑的。全部ではないだろうけど、大分滑ってる筈。

 

僕が言うところのフォーマリズムとはアンフォルメルに留まらないこと、不可能を可能たらしめる一切の活動だけど、そういうものが世界を面白くするのは間違いないし、ほんとうの最先端≒楽園のエミュレーションだなっていう気はする。コンピュータにはこれは真似できないという持論は多分、変わらない。