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THINK ABOUT SOMETHING.

哲学史は終わらない

思考整理。僕の100mの記録が15秒台だと仮定する。ここに『彼の100m走は何秒台か』という議論が発生したとして、反論の最も少ない地点が真理に最も近い地点だという仮説。

 

例えば「彼は9秒台だ」という説を唱える人間がいたら、そこには多大なる反論が生まれる。逆に「彼は20秒台だ」という説を唱える人間がいたら、そこにも多大なる反論が生まれる。これが「彼は15秒台だ」という説を唱える人間になると、反論は概ねなくなるだろう。

 

但しこれが終わりではない。15秒台ということは小数点以下が存在する訳だけど、僕は小数は無限に微視できるという立場だから、例えばストップウォッチに15.00秒と記録されても、微視の果てには15.000000001秒という0以外の数字が現れるかもしれず、ここに新たな議論が始まる。

 

仮に15秒の小数点以下に『142857』という循環節がくりかえされるとして、彼は15.1秒か否か、否。彼は15.14秒か否か、否。彼は15.142秒か否か、否。彼は15.1428秒か否か、否……と永遠に微視できる訳で、言い換えれば永遠に否が続き、真理には永遠に到達しない。

 

つまり真理は描けないのだ。世界が仮に無限なら、世界にスタティックなものは存在しない。A-B間を通過した時間記述すらも究極的にはダイナミックにならざるを得ず、それを『描いたり!』と断じた時点でスタティックなものになる。だからやはり真理は描けないのだ。

 

要は記述がスタティックで、万物がダイナミックなら、記述は万物をひとつも描けないということだ。相対主義という考え方は収斂の対極にあると思うけど、その出発地点はここに依拠しているように思い、但し僕は収斂させるべきだという考え方。真理は描けなくても真理『的』なものは描けるからだ。

 

僕が『真理は描けない』という真理を記述したつもりでも、『...しかし真理的なものは描ける...』と永遠に記述は後続でき、その全長が哲学史になるのではないか。相対主義がこの全長を無限に後続させていく流れに対峙しない限りにおいて、僕は相対主義にはならない。収斂させる全長の歴史に乗る。

 

では今度は『絶対はあるか』という議論が発生したとして、「絶対はある」という説を唱えても「絶対はない」という説を唱えても、おそらく反論は半々で出る。しかし後者の説は『絶対はないという絶対』を唱えてる時点で矛盾なので、それが正しい場合、必然的に絶対はあることになる。

 

僕は「絶対はない」という立場だが、これはつまり「絶対はある」という立場表明でもある。つまりこの議論の答は「絶対はある」にしかなり得ないのだ。あればあるし、なくてもないという絶対があることになるからだ。そうなると反論の少なさは真理と相即しない……と言えそうだが違うのだ。

 

つまり『絶対はある』という説には反論を呼びかねない曖昧さがあり、そこから僕は存在する理由を後続する言葉で微視させていった。『絶対はある...何故ならばあればあるし、なくてもないという絶対があることになるからだ...』と永遠に後続する微視をほぼ確定的な桁まで確定させた訳だ。

 

そこまで行って初めて反論が最小化される。1.28が解の議論において「1.00台だ」と上一桁を確定させて言うよりも「1.20台だ」と上二桁を確定させて言う方が厳密になり、イメージが普遍化される。モザイクが解けていくイメージだな。

 

モザイクが解けていく(つまり永遠後続する)ことで初めてその原像と永遠後続する整数部=結論が一致されていく。もちろん人間は思想(結論)を転回することがあるけど、これは花に思えていたものが実は造花だったというような事態であり、微視の果てに起きる『聖なる脱』である。

 

つまり微視には整数部を強固にする作用のみならず、整数部そのものをひっくり返す発見もあり得る訳で、言い換えれば『脱』という帰結は途方もない旅の果ての大発見であり、『神は細部に宿る』の一形態ということなのだ。そう、既成概念の破壊にも微視は不可欠なのだ。

 

花に思えるものの微視を続けることでより花であると自信を持ち(整数部の強固化)、しかしまた微視を続けることで編み目を見出し、実は造花であると覚るように(整数部の大転回)。どちらを指し示すかは神のみぞ知るとしても、基本原則は微視を後続させていくしかないというところに尽きるのだろうな。