《宿す》ではない、《宿る》なのだ
パフォーマンス(形式)は起こすものか、起きるものか。形式というのは精神の帰結だから、形式そのもののコピーはできない。つまり、その精神は形式に帰結する精神と一致しない。では精神そのもののコピーが可能かというと、精神をコピーする精神にその精神は見極められない。これは実に面白いことだ。
例えばブレイクダンス。この修練なくして起こり得ないパフォーマンスは、その外見だけを真似しても出鱈目なものにしかならない。かと言ってブレイクダンスを行う人の精神状態を模倣しようにも、その精神状態は何らかの到達なので、そこに達していない精神にその精神は見極められない。そういうことだ。
起こすと起きる、あるいは宿すと宿る。ここで《満面の笑み》を考えてみると、それを起こそうとした場合と起きた場合とでは絶対的な違いがある。そして人間はそれに気づく。それが宿したものなのか宿ったものなのかについて無意識的に気づく。人間は作為にとても敏感な生き物だ。
どこまで行っても前者は後者に届かない。ジェームス・ディーンでも届かない。つまり後者以上の前者はあり得ず、前者はみな後者の演技の域を出ない。しかし一流の役者は感情移入の移入意識をなくした移入、即ち強張りのない自然な挙動で形式を廻し出す。ほぼ《宿るの域》という訳だ。
宿すが作為で、宿るが自然なら、そのグラデーションを限りなく自然に近づけることが修練ということになる。ブレイクダンスは形式的にも精神的にもコピーできない。つまり宿しているようでは宿りようがない。しかしやはり宿さなければ話にならない。そしてその宿し方にも形式が存在せざるを得ない。
例えば高身長という形式があって、そうなりたくて背伸びするのがコピーなら、そうなる栄養を積極的に摂るのが宿し方の形式という訳だ。形式そのものをコピーするのではなく、形式を宿す形式をコピーしなければならない。そして《宿し》が《宿り》に変わらなければならない。
つまり《宿す》ではなく《宿る》なのだ。あるいは《宿し》は人に見せてはならず、《宿り》だけを見せなければならないのだ。もちろんこれも一つの形式に過ぎないが、この形式こそが人間が最も輝いて見える最有力形式ではないだろうか。