BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

私のコピーライティング

コピーについて思うことを書こう。

 

コピーの個人的な理想形というのは、日常で先ず登場しないクリティカル口語・文語・文法にある。
《どこにでも登場できるものではなくここにしか登場できないもの》がそれであり、日本語のコピーで自分が一番好きな《不思議、大好き。》もここにしか登場できないものに分類される。
日常会話や小説でこの言葉が登場することは先ずあり得ないからだが、これは永ちゃんの《よろしく。》も実はそうで、どこにでも登場できる言葉に見えてコピーとして成立するのは永ちゃんのポスターでしかあり得ない、つまりそこにしか登場できない。
ナイキの《JUST DO IT.》も同じ仕組み。

 

ただこれは概念的な話で、具体的にどうすればそういうコピーが生まれるのかの方が問題だ。
先ず短文になればなるほど黄金は枯渇している。ナイキには勝てない。
逆に長文になればなるほど黄金は描けるが、流通力がなくなっていく。
これらの中間の短文寄り、即ち黄金が枯渇していないギリギリの際を目指すことを先ず大前提に据える。
今だったらFacebookぐらいのドメインの長さが黄金が枯渇していないギリギリのラインであるように、その長さを念頭に置いておく。
既に抽象的だが、この長さの定義は自分にはできそうもない。

 

次に自分は《脱自動化》ということを考える。
これはブレヒトの用法と違い、垂れ流されていく情報から脱するという意味で、例えば同じ何かを描いても言葉の組み合わせ次第で、《立ち止まるもの/立ち止まらないもの》の分岐が起きる。
そのほとんどを立ち止まらせない描写からそのほとんどを立ち止まらせる描写への逸脱が、ここでいう脱自動化にあたる。

 

また《愛してる》は愛情表現の一例だが、一見脱自動化の対極にある=逸脱していないように見える。
つまり表現として最も平凡なわけだが、これは《よろしく。》同様言葉だけを切り取るからそう見えるのであり、《愛してる》という言葉が登場するシチュエーション次第で、その言葉は垂れ流されないそこにしか登場できないものとなる。
あんまり好きな言葉ではないがムードメイキングによってそれが可能になり、コピーの場合これは広告依存だろう。
ただし個人的にはこれは王道の手ではないと思われる。

 

それよりもコピーそのものを逸脱させることであり、同じ表現のなかからの逸脱と表現そのものの逸脱、この二つにコピーライティングは大別されるように思う。
前者は宮崎駿が言うように、同じ黄金を描いても名作と駄作に分かれるが、そのなかで名作になることである。
後者は黄金そのものを見つけ出すことであり、これは題材と文法に大別される。
自分の大好きな《不思議、大好き。》は両者のいいとこ取りであり、少年のこころを描いたようなあらゆる表現のなかで最も洗練されたポップさを持ち、また読点を間に挟むことで口語でも文語でも登場し得ない《コピー語》とでも言うべき文法を成立させている。

 

この文法の発見=表現そのものの逸脱を自分のコピーライティングの理想に据えている。
《JUST DO IT.》よりも《よろしく。》よりも《不思議、大好き。》が大好きなのだ。

 

また語尾よりも配置、配置よりも題材というのが自分の基本的な考え方で、語尾を変えるよりも言葉の配置を、言葉の配置を変えるよりも題材を変える方がよりダイナミックに変化する。
小さく変化するということはほとんど変化に気づけないということだが、より大きく変化すればそれぞれがより強く客観視される。
そのダイナミックな変化のなかで黄金の題材を直観で選りすぐり、トライアンドエラーを高速化する。
捨てるときは素早く捨て、取るときは奥深く取り、そこで文法自体を組み立てられる可能性があればそれをとことん追求する。
これが自分の理想のコピーライティングなのだ。

 

ではそのコピーライティングはどうやって行えばいいのか。

 

これは以前にも記事にしているのだが、当たり前の日常が構図の切り取りやそのエディットによって素晴らしい写真に昇華されるように、言わんとしていること自体は非日常でなくてもいいから、しかしそれでは当たり前のことでしかないから、着眼点や言い方を脱自動化したり、オチを伏せることで読後のカタルシスを与えるというのが自分の基本的なゴールで、その方法論は《禁則を決めることで打率を上げる》と《流れ的にこれしかないに気づく》というところに集約する。
以下は以前の記事とほとんど重複するが、当記事を完全版にしてしまおう。

 

一番注意すべきだと思うのは、多分、コピーを読んでいる途中で最後までの内容を先読みされてしまってはいけない、ということで、先読みできてしまうということは《抜け》がないのだ。
見え透いた言葉の動線が残っているから誰にでも先が読めてしまう、というところから群を抜いていないわけで、主語と述語の関係が説明に終始するようなコピーにこれは多い。

 

例えば《AはA’です》とか言われても、ダッシュがついただけでは何の驚きもないし、誰にでも先が読める。
これを《AはZです》ぐらい言い切ってしまって、それでもイコールが成立するような言葉のエディットがあれば読後のカタルシスが起きる。
この場合のZというのは《Aとは全く違うもの》という意味ではなく、字面がAの近似からはかけ離れているのに意味合いは同じ、というようなもので、字面の近似というのは《Aを易々と想起できてしまう内容》というようなものだ。
あるいはAが名詞なら名詞で、動詞+名詞なら動詞+名詞で、形容詞+名詞なら形容詞+名詞でイコール化し、つまりAと同じ品詞構成でイコール化し、且つそれが初歩的な類語であるとかもダメ。

 

過去の宣伝会議賞受賞作の《家は路上に放置されている。》も前後が説明関係なんだけど、《Aは~です》の述語は言い方ひとつではないし、それを見事な言い方にまで昇華させている。
つまり家(A)の説明を別の品詞構成で閉じている上、それが家を易々と想起できてしまう内容ではないから(家の部分を伏せたら謎かけになり得る)、この説明は《Z的》ということなのだ。
本質的にはこのコピーは日常を描いているに過ぎず、《家はずっと同じ場所です》という当たり前のことを言い方を変えることで当たり前にさせないわけだ(グーグルアース的な視点に飛べる)。

 

また偶数的なコピーも先を読まれることが多い。
言わば《恋はA。愛はB。》とかいう類のコピーだ。
この構成の時点で《愛は》の後にAに似つかわしくないものを持ってくることは先ず読まれる。
同時に《かけ離れていればいるほどなるほど感が出る》というのも、まあ結局は読まれるので、Aの対義語まで行かなかったとしても、少なくともAの類語周辺は線から消える。
もし《恋は仮初。》と来たら、もう《愛は永遠。》になるのはほぼ鉄板なわけだ。

 

上手く言葉にできないのだが、ただの左右対称になっているだけで、左を読めば右が、右を読めば左が読めるというこの偶数構成は読後の驚きが起こりにくい(起こらないとは言わない)。
《対義語、対義語。》という構成だけでなく、《類語、類語。》という構成でもこれは同じことで、これを《対義語、対義語、非対義語。》や《類語、類語、非類語。》という奇数構成に変えれば、最後の奇数がオチになるわけだ(左右対称性が破壊される)。
これについては《おとなもこどもも、おねーさんも。》が一番分かりやすいと思う。

 

確かビートたけしが言っていたことだが、映画を撮り始めた当初勝手が分からないから、とりあえず今まで観てきた映画で「これはしてはダメだ」と思ったことを全部避けて撮るというやり方をしたらしく、この《禁則を決めることで打率を上げる》というのが初歩的な方法論。
そして《この言葉の流れからするとここにはこういうタイプの品詞を置かないとコピーにならない》というのが少しずつ分かってくるようになり、そこでその品詞ないしは品詞構成がなかなか見当たらない場合、それ以上掘っていってもひねくれた言葉しか残っていないので、言葉の流れ=言葉の配置を変えるか、別の題材に移動するかの判断が高速化されていくというのが高度な方法論。

 

結論としては、何かを描くにしてもそこから《表現の異質さ》それ自体を目指しても路頭に迷うだけなので、《オチを伏せる(先を読ませない)》というところに重点を置けば結果的にそれが異質さになる、ということを念頭に置けばいいと思う。
《これが来たら次はこれ》と相場が決まっている=言葉の動線が残っているところに驚きはないので、その相場からの外しを置くか、相場観がそもそもないところに行くかのどちらかを目指せたら理想的。
そこには全くひねりのないストレートな言葉が待っているだろうから。