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THINK ABOUT SOMETHING.

夢に敵無し

『ライバル(自分以外の夢)に勝てるか』という視点で言えばその限りではないが、『夢の障壁を越えられるか』という視点で言えば夢に敵はない。夢が夢未満の何ものかとぶつかっても、夢の側が必ず勝つという視点だ。そこで負ければ夢ではないことの証明なのだ。

 

セックスでもいいのだけど、それをしている最中は親友からの電話でも邪魔に聞こえる。世界全体の一大事よりも大切なことをしている意識があるから、何もかもを背にする=越えようとする訳だ。この心理状態が夢みるということの本質で、そうではないものは夢ではないのだ。

 

今自分の見ている夢がセックスのように快楽的でなければ、この心理状態には到らない。つまりオーガズムに迫っている実感がなければ、欲動の最高峰でないのならば、その他一切の欲動に敗れ得るし、『諦めるべきか』という発想が出てくること自体夢を見ていない証拠なのだ。

 

これはセックスの最中に『射精を諦めるべきか』と考える人間がいないようなもので、その発想が出てくること自体、実はセックスできていない只の空想であることの自覚の表れなのだ。言い換えれば『射精を諦めるべきか』ではなく『射精できるのかな』が本音で、これが夢みるものによくある自己欺瞞だ。

 

夢みる上で障壁はいくらでもある。それは金銭的な話であったり、将来性の話であったり、年齢的な問題であったりするけれど、本気でその全てを物ともしないならば、諦観も自己欺瞞もないのならば、それは本物の夢である可能性が高い。そういう『叶えられる夢』というのは誰もが持てる筈なのだ。

 

nujabesは「夢に打ち込んでいれば、ひたむきにそうであれば、その姿が味方を自然と作る」ということを言っていた筈だが、これは夢の方角に仲間が居るという意味だけでなく、その中でも応援したくなる人間の姿があるということを言っている筈。きっと夢みるという行為の本物がそれなんだろう。

 

まあこれは理想論めいた話だし、より高い欲動がより低い欲動を常に征するというのは嘘だ。ただ自分が言いたいのは、全てを越えられるということが夢の本質で、越えられなければそこまでの想いではないということで、またその想いを成り立たせる為にはその才能も絡んでくるという話なのだ。

 

後天的なものを否定する訳ではないが、僕は後天性に接続するのも結局は先天性から来ているというスタンスだ。以前も言っている筈だが、例えば僕が今から将棋で頂点に立つという夢は持たないし、そこには先天的なものが圧倒的に欠けている自覚がある訳だ。

 

先天性それ自体で才能が成立するということはあり得ないが、後天性に接続するものは総じて先天性(素養)を意識しているのだ。これなら自分は行ける、というところにしか人間は行かないし、そこで『継続は力なり』を体現すればいいし、その道の障壁という意味においては『夢に敵無し』なのである。