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THINK ABOUT SOMETHING.

正義よりも強者

言論の妥当性というのは言論そのものの強度より、行為の方が先行するように思う。僕みたいな無名の人間がなんぼえらそうなこと言ったって、行為が伴わないから胡散臭い訳だ。


「正論か曲論か」という考え方はもう古くて、強い奴の言葉なら曲論でもまかり通ってしまう現実がある訳。結局正論が思想を造るというよりは、強い奴が思想を標準化する訳だから、僕ももっと強くならなきゃな、と最近よく思う。


それがハッタリで終わるなら最初から表に出ない方がいいけど、揺るがない自信があるのなら自分がスタンダードになり、自分がアイコンになればいい訳。その先にある「今までの権威(暫定の正論)の総書き換え」は、きっと相当楽しいんだぜ。


書き換えが世界を前進させるのは科学だけでなく、芸術でも一緒。人間が同じ所で止まらないのは現実より非現実を求める心理も働いてるんだろうけど(「今」を認めれる人間なんて中々居ないからね)、現実こそ「形」に違いないんだから、その土俵で書き換えしなきゃ全ては無為に終わる。


それはボクシングのない時代のボクサーや、陸上競技のない時代のランナーに近く、どれだけ彼等が素晴らしくてもそれは現実(記録)にはならない訳。書き換えるフォルムが最初からないんだから、いくら努力したって空回るだけ。


それは神を置かない宗教が成立しないのと同じで、フォルムが全てを輝かせるし、書き換えの動機にもなる訳。その外側と言えばあそこは「ダダ」だ。まれに寺山修司のような異端も居るけど、基本的に近付かない方がいい。


純情と堕落というのは独創性の裏表。それは諸刃の剣だし、生半可な気持ちで発揮しても結局堕ちていくだけ。MTVのCM的なノリが十年好きで居られたら突っ込んでもいいかもだけど、ほとんどの人は途中でどうでもよくなるからね。


まあそんなこんなで思う所は色々あるけど、僕もそろそろ、動いてみるにゃん。というか既に動き始めてるけど、百歩譲って実ったとしてもそれは来年だな。