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THINK ABOUT SOMETHING.

芸術の一つの存在理由

人間歳を取ればイヤなこともどんどん増えていく。それが加速度的に急増するのがモラトリアムの期間だとすれば、「鈍感」はモラトリアム卒業のカギだろう。


多感なままでは破綻するから、反抗するだけでは収まらないから、大多数は鈍感な人間に収束し、社会生活を始める。つまり多くのものを犠牲にし、多くのものを手に入れる訳だ。


不可抗力で万人にやって来る抑圧というのは「社会」だ。そこで人間は「捨てるもの」を選択し、社会生活と整合させる。即ち実益主義者が芸術を即切るようなやり方で、生存の為の必然性を優先的に残していく訳だ。


大体ここで切られるものというのは青春にまつわるもの全般だ。悪く言えば社会的に必ずしも必要ではないもので、良く言えば若者の多感性を証明できる螺旋的なカルチャーだ。


まあ、こんなこと僕が言わなくても誰でも分かってるだろうが、夢を目指してほとんどの夢が破れ、社会人になるということを僕は言っている。多感性を押し殺して芸術的要素を排除し、社会的必然に自分を統合する訳だ。


僕は芸術論を語れるほど頭はよくないが、芸術にも必然性があることは知っている。例えば聖書に「汝の隣人を愛せ」という言葉があるが、この言葉の是非はともかくとして、これが「あなたの隣の人を愛しなさい」だと全然意味が変わってくる。


同じことを言っているのに、違う意味になるマジックがそこにはあって、後者は社会的な言葉で、前者は芸術的な言葉だ。言い換えれば人間生活を営む上での必然性を必然性のまま垂れ流すのか、万人に遍く響く芸術性に昇華するのかという違いがそこにはある訳。


ベタな言葉はすぐに腐る。そこに正論か曲論かなんて判断はない。僕は詩(芸術)の必然性をそこに見出す。即ち正論のアーカイブは歴史的に十分にできあがっているが、それらを総じて輝く詩に書き換える作業が必要だと思う訳だ。


文学のベースは正にこれだろう。ある意味で正論のアーカイブは全面的に網羅されているのに、人間がちっとも進歩しないのは「言葉の腐敗」に踊らされているからだ。故に僕等は定期的に正論を書き換え、螺旋的に鮮度を保たなきゃならない。


この暗黙の了解を破るとどうなるか。あるいは螺旋よりも腐敗の方が速かった場合どうなるか。簡単なことで、過ちは繰り返される、これしかない。


さて話を戻そう。一般的な意味における大人化というのは社会的には正しいかもしれないが、芸術的には螺旋を降り過ちの地底(温床)にまで落ちぶれる行為だ。翻って子供帰りというのは大人がもう一度山を昇り、創造の現場で自分自身(言霊)を歴史化する行為だ。


糸井重里が言っていた「子供の自由を取り戻す」って、こういうことなのか。以前逆説を唱えたけど、考えを整理するとこっちの方が間違ってたのかもしれないな。