ハイアマチュアであれ
詳しい意味は分かってないけど、僕はNIKEの「JUST DO IT」という言葉が好きだ。キャッチコピーの世界では多分、短さは一つの正義なんだろうけど、それでいてNIKEらしさの筋が通ってるというか、要は「完成されてる」と思うのだ。
でも偶に思うのは、ほとんどのキャッチコピーはそれ単体でメモに書くと、何の強度もないただの紙切れにしかならないということ。白紙の中にはバックボーンもないし、イマジネーションもないからだ。
だからその紙の中にはアイコンも同時に置いてやらなきゃならない。それで初めてバックボーンが見えてくるし、イマジネーションも湧いてくるけど、これらが意味するのはキャッチコピーというのは一種のハッタリということだ。
アイコンがなければただの紙切れだということは、アイコン(ブランド)が前提(バックボーン)として成り立っているということ。今だったら「JUST DO IT」は誰でも知ってるから、それ単体でも成立するけど、全く知られてない頃にそれを発言しても、何のイマジネーションも湧いてこない訳だ。
少し論理が飛躍するけど、別にキャッチコピーに限らなくても作家の世界でも同じことは在る。例えば宮崎駿が自然主義的な作品を造ったとして、その中の台詞に反論する為にはまるでその作品を超える作品を造れなきゃ話にならない、と感じるような錯覚だ。
これは東大生を批判する為には東大に入らなきゃいけない、というのと似ている。だから例え一作でもいいから会心の一作を造ると、作家はそこから悦に入ることができる。どんな発言をしても言葉に筋が通るかのように思わせる、言わば言いたい放題の領域だ。
これは先日の嘘の話に通じるものが在って、言わば「ステージからの言葉」に過ぎない。僕はそんなものはまやかしに過ぎないと思うし、そこから降りて観客の現場で言葉を発さなきゃならない。そういう意味ではアマチュアの名言は総じて本物だと思うし、プロは時折ハッタリを含む訳だ。
僕には何の後ろ盾もないから、ハッタリに頼るなんてことは当然できない。文壇にも歌壇にも僕の席はないし、嘘を付いた所でそのまま素通りされるだけ。そういう意味で一生ハイアマチュアを志向するのも悪くないと思うけど、プロになって登壇しなきゃ言葉は雲になる、という可能性も感じている。
アマチュアは一生強気なことが言えるし、それが本質を衝くことも大いに在る。名言の近道はバックボーンが在ることだけど、それなしに成立する名言は絶対に本物で、逆に言えば本物じゃなきゃ素の名言は成立しない(バックボーンが在れば別)。
即ち言葉それ自体が何かを照らすような強度をハイアマチュアは持っているし、その点において彼等はプロを超えている。プロになったら途端に言葉が弱腰になって、なあなあで全てをまとめてしまいかねないし、そういう意味では一生アマチュアで居るのも悪くないな、と思うようになった。
アマチュアとアングラは少し似てて、どちらも雲か実かの満ち欠けをコントロールしなきゃならない。言わばハイアマチュアというのはアマチュアの天辺という訳ではなく、度を過ぎるとプロになってしまう。雲で終わるのはあまりにも虚しいけど、実が先行するのも楽しくないという、バランス感覚。
そういう意味でクリエイターの最高の落とし所というのは、ハイアマチュアなのかもしれないな。