四段階青春説
人は主観が全体化したような世界観(我は神なり)から出発し、客観を共同化したような世界観(神は死せり)に落ちぶれていく。言わば神話から歴史への転落であり、成人するということである。
産まれた瞬間は創世期の神の如く、誰からも愛される「小さな神」であり、同時に世界全体を我が物として捉える「主観の巨人」でもある訳だが、そこから主観を微視化していく現実は避けられず、神話は徐々に崩壊していく。
そして神話の崩壊と引き換えに始まるものが在る。いわゆる反抗期と呼ばれるもので、愛されることも主観視することも封じられた客観の犠牲者が、昔の権利を革めて主張し始める「甘えの行為」という訳だ。
大分端折りまくってるが、ここで結局九割九分九厘の人が客観の共同化に落ち着いていく。コミカルな例しか思い浮かばないが日本で言うとミッチーとかがその逆の人で、ある意味兵(つわもの)だと僕なんかは思う訳。
もちろん僕は九割九分九厘側の人間だけど、認識が最終的行為だとは全然思わなかったから、もう一度神を甦らせる(客観を蝕む)方法を色々考えてきた。主観の巨人から小人まで縮こまったのに、もう一度巨人になる手段を模索した訳です。
でもそれは実に過酷なことで、今度は創世期じゃないから廻りの恩寵もないし、並大抵のことでは人口分の一の自分の主観など台頭できる訳もない。当たり前の日常に光を燈すという行為は神よりむしろ聖者的行為で、純粋な一人間としての相対的な「輝きの勝負」な訳だ。
少し話は飛躍するが「等しいものなど何一つない」という考え方は数学以外の全てに当てはまる。では数学が世界かと言われると世界の近似に過ぎないと誰もが答えるし、結局その等価性も定義分解すれば幻になる。そういう意味では「真理など何一つない」という真理だけが最後に残る訳だ。
じゃあその隙間を何で埋めるかだけど、それは言葉でもないし、絵でもない。あれでもないこれでもないと模索していく果てに、結局頭の悪い僕が行き着いた答は「行為」だった。それだけが一人間としての輝き足り得ると思ったのだ。
これはあくまで理想論だけど、観念とその認識と果ての行為までが一貫して遊戯であるような、赫灼。あるいは性的妄想が現実のセックスの近似に変化していくような、自浄作用。それこそが「火を奪う」為の最高峰の道標であり、それは人生で偶然詰将棋を解いた時に立ち現れる虹のような「徴」なのである。
神(虚無)から始まり我(観念)と化し、識ること(認識)に至り燈すこと(行為)に究まる。これが僕の考える四段階青春説であり、「覚り」と「燈し」と「行為」は僕の中では全て同義です。