リライトは黄金パターンの為にある
偶々ビートたけしと黒澤明の対談をYouTubeで観たけど、黒澤明の発言に「余計なものは要らない」というのがあって、本当にそうだと思った。
余計なものというのは要するに、一つの完成されたシンプルイズベストが先ずあって、そことの既視感を避ける為に試行錯誤するプロセスで生まれる訳だろう。これは一概に否定できるものではないし、ポジティブな面もあるんだけど、それ自体が目的化したら末期症状だと思う。
僕は昔ベイプスタを超えるようなスニーカーのデザインに挑戦したことがある。結論から言うと「同じ土俵では無理だ」という所に行き着いたけど、あれがシンプルイズベストの分かりやすい例で、エアフォースというフォーマットの上に載せるアイコンとしては、ほぼ完成されてる訳だ。
こういう頭打ち的な思考の対象は、さくっと捨てて水平思考した方がいいし、それができずにスニーカーデザインに執着してた頃は、余計なものばかり書き足してた訳だ。そこで気付いたのが、「書き足す」と「書き直す」は全然別の行為だということ。
少し話が飛ぶが、僕は映画のパフュームが好きだ。でも話の展開的には何の独創性も感じなかったし、言い換えれば王道の展開を堂々とサンプリングできる独創的な外観があったということ。他で例えるならゼルダに対する大神でもいいかな。
宮崎駿が言うように、黄金パターンというのはとことんやり尽くされてるのに、それでも尚人を惹き付ける作品と、そうじゃない飽き飽きした作品とに分かれるだろう。この前者が「書き直す」とか「焼き直す」とかいう言葉が正当化される瞬間であり、シンプルイズベストの聖なるリレーな訳だ。
僕はここに与しない芸術は信用しない。新しい黄金パターンが生まれる可能性は否定できないけど、吉本隆明が言うように「重要なことは古代で大体考え尽くされている」訳で、文化芸術にしたって根っこの部分は最初で大体出尽くすし、後は小手先の組み換えがあるぐらいだ。
また話が飛ぶが、正式な名称は分からないけど、日本画的な太陽の表現というのがある。主に白地に赤で描写される、太陽の円からいくつも拡散された太い光芒。それを最近動画に組み込んで分かったのは、シンプルイズベストというのは必然性の帰結だということ。
あの中心から先端に向かって広がっていく光芒の描写は、視覚的なカッコよさももちろんあるけど、それ以前に幾何学的な必然性というのもあって、例えば光芒の左右の端を平行にしてしまうと、(多分だけど)光芒の面積を効率的に稼げなくなる訳だ。
そうなると太陽の拡散的なイメージも失われれば、光芒と光芒の合間の独白=照らす対象の面積の方が大きくなって、二元論的な対称性もなくなるし、どう考えても「なるべくしてなったデザイン」だと気付いたのだ。
でもこれは「一瞬で頭打ちが来るもの」だろう。シンプルな美しさというのは原則時代の最初期に総じて完成されるし、後はその上で如何に偶然性を組織化するかに懸かっている。そしてこの構造に反抗するのがダダとかシュールだと思うのだ。
「ITで人間なんか変わりゃしないんだよ」という発言に象徴されるように、どんなものでも根っこの部分、土台の部分は最初期に大体できあがる。その上で「書き足す」か「書き直す」かをやる訳だけど、僕は原則後者をやって、そこで生じた誤差の共振を信じればいいと思う。
それが新しい黄金パターンに繋がる「本来の文脈」だ。翻って「書き足す」ことで生じる誤差には揺さ振られるものは何もないし、余計なもので構成されたそれは「流行の文脈」というか、表面現象に過ぎないと言っていいだろう。