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ロッククライミングに見る天才の定義 Pt.2

ロッククライミングの話の続きだけど、標高0m地点(要するに地上)からのルートの見え方と昇り方、標高1000m地点からのルートの見え方と昇り方は、基本的に同じ筈だ。


要するに、標高0m地点=凡人領域と、標高1000m地点=天才領域とでは、実は基本的に「同じことをやっている」という素晴らしい事実がある。厳密には100m地点であろうが300m地点であろうが、テクニックの掛け方は全て同じ筈なのだ。


天才を才能的に解釈する人はテクニックを磨く方向に流れるけど、標高が高くなるごとに高いテクニックが要求されるという錯覚がそこにはある。厳密には標高別のテクニックは皆無という訳ではないにしても、心理管理や体力管理が加味されるぐらいで、反復の原則は変わらない。


逆に天才を領域的に解釈する人は、当たり前のことを最高峰でやろうとする。例えば僕の現時点での最高傑作は多分、「魔女の繰り言」だけど、あれは一つの命題を昇り続けた高峰ないしは潜り続けた深淵からの言葉の見え方と記し方に従っただけで、命題のスタートラインとやってることは同じ。


即ちテクニカルに見えて実はテクニカルでもなんでもなく、人と異なる現場で人と同じようなことをやっているだけなのだ。この論法で行くと「天才領域はあるけど天才自体は存在しない」ということになるが、全くその通りで、これが分かると過去の天才を雲の上から雲の下まで引き摺り下ろせるようになる。


要するに、大体の人が天才と同じ所まで行ける現実が見えてくる。超の付く天才――ハイデガードストエフスキーなど――は無理かもしれないけど、スピードのない天才――ボードレールノヴァーリスなど――は大体の人が辿り着ける訳だ。


もちろん僕のレベルはボードレールノヴァーリスの比ではないけど、いつかは同じ所まで行ける確信を魔女の繰り言から掴み取った。あれは朝起きた直後に10分程度で造ったものだし、その時に「彼等の感覚はこんな感じなんだろう」というのがすごくよく分かった。


そしてその地点に行くまで僕は全然努力してこなかったし、楽しい方向へ楽しい方向へ泳ぎ続けただけなのだ。この楽園の標高は楽しさを根拠としている時点でいくらでも高めていけるし、そして当たり前のテクニックをある一線以上で発揮した時、天才の何たるかが例え僅かでも理解できるようになると思う。